ハンサム・ウーマン 新島八重と明治の京都

ハンサム・ウーマン 新島八重と明治の京都 page 9/14

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49 づく教育の実践を目的とする同志社英学校を開校した。校舎は、寺町通丸太町上るの、高松邸という華族の家を借りた。開校時の教員は新島とデイヴィスの2人、学生は僅か8名であった。ちなみに「同志社」と命名した....

49 づく教育の実践を目的とする同志社英学校を開校した。校舎は、寺町通丸太町上るの、高松邸という華族の家を借りた。開校時の教員は新島とデイヴィスの2人、学生は僅か8名であった。ちなみに「同志社」と命名したのは覚馬だとされる。 取りあえず開校はしたものの、英学校はすぐに試練を味わうことになる。当地の近くには京都御所や京都五山の一つである相しょう国こく寺じがあり、保守派や仏教界から大きな反対運動が起こった。そのような「神聖」な地に、異教徒の学校を造るとは何事か、という新島、覚馬らの  協力で悲願達成16同社学志英校 新島と八重が婚約中の明治8年(1875)11月29日、新島は槇村知事と覚馬の協力を得て、キリスト教精神に基訳である。当初は同志社の誘致に熱心であった槇村知事も、俄然冷ややかな態度を取るようになった。家主である高松保実を府へ呼び出し、「新島に家を貸してはならん」と言いつけたりしている。幸い高松は貧乏華族で、前金として受け取った3ヶ月分の家賃が返せず、お陰で立ち退きを言い渡されることはなかった。高たか松まつ保やす実ざね(1817 ~ 1878)権中納言・高松公佑の三男として生まれる。元服後、備中守、院判官代、大膳太夫、右近衛少将などを歴任。安政勤王八十八延臣の1 人として、幕府による日米修好通商条約締結に反対し、勅許阻止のため座り込みを行った。有終館