ハンサム・ウーマン 新島八重と明治の京都

ハンサム・ウーマン 新島八重と明治の京都 page 6/14

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46る2人である)、急速に親密度が増すのは当然であろう。新島からどのようなプロポーズの言葉があったかは分からないが、明治8年(1875)10月、2人は婚約する。 ここで気になるのは、八重は再婚で新島は初婚である....

46る2人である)、急速に親密度が増すのは当然であろう。新島からどのようなプロポーズの言葉があったかは分からないが、明治8年(1875)10月、2人は婚約する。 ここで気になるのは、八重は再婚で新島は初婚であるということだ。しかも、八重は前夫・尚之助とは死に別れではなく生き別れである。いくら信頼する覚馬の妹で、自分の意志を持つ理想的な女性とはいえ、当時の社会常識からして新島に抵抗感はなかったのだろうか。そもそも、キリスト教は離婚を禁じている。八重が新島に聖書を習いに京都で愛を育んだ    八重と新島15 キリスト教式結婚式 覚馬と意気投合した新島は、覚馬の屋敷に住み込むようになる。もちらん、そこには覚馬の妹である八重も住んでいた。おそらく、覚馬は新島から八重への気持ちを聞かされ、自らも望むところと思って、彼に同居を勧めたのだろう。若い独身の男女が一つ屋根の下に暮らすようになれば(しかも回りから結婚を期待され行っていた頃、会津戦争の話をよくしたとされるが、その際、尚之助との離婚について、新島が納得できるような理由が語られていたのかもしれない。あるいはクリスチャン・ホームを作るために、新島は少々のことには目をつむったのだろうか。ちなみに、尚之助は八重と離別後、会津藩に与えられた下北半島の地に移り、八重が新島と婚約する半年前に東京で亡くなっている。 新島と八重の結婚式は、明治9年(1876)1月3日、同志社英学校の講師として招かれていたアメリカン・ボードの宣教師、デイヴィスの邸