ハンサム・ウーマン 新島八重と明治の京都

ハンサム・ウーマン 新島八重と明治の京都 page 13/14

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53 同志社女子大学 地図P124京都市上京区今出川寺町西入市バス「同志社前」から徒歩すぐ/市バス「烏丸今出川」から徒歩3分山やま本もと佐さ久く(1810 ~ 1896)会津国の生まれ。父親は、会津藩の砲術指南役・....

53 同志社女子大学 地図P124京都市上京区今出川寺町西入市バス「同志社前」から徒歩すぐ/市バス「烏丸今出川」から徒歩3分山やま本もと佐さ久く(1810 ~ 1896)会津国の生まれ。父親は、会津藩の砲術指南役・山本佐兵衛。会津藩士・永岡繁之助(権八)を養子に迎え、覚馬、八重を含む3 男3 女を生むが、二男と二女は早世した。で小笠原流の礼法を教えていた)。面白いのは、高齢の八重の母・佐久が自ら洗礼を受け、舎しゃ監かんとして八重よりも長く同女学校に勤めていることだ。 佐久は、会津戦争の際、八重とともに鶴ヶ城に籠城しており、おそらくは会津武家の女として甲斐甲斐しく働いたのだろう。また彼女は、子供たちを厳しくしつける、教育熱心な賢母でもあった。覚馬は、晩年に至っても佐久に頭が上がらなかったらしく、「おっかさん、早くおまんまを食べさせてくれ」などと言って甘えていたようだ。クウェザーとぶつかったのは、スタークウェザーによると、八重の、身分に対する日本的・封建的な考え方が一因だったというから、皮肉な話ではある(八重は同女学校同志社女子大学卒業式風景(栄光館前)山本佐久・権八・三郎の墓(同志社墓地)