ハンサム・ウーマン 新島八重と明治の京都

ハンサム・ウーマン 新島八重と明治の京都 page 12/14

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52教精神を備えた青年を養成しても、彼らが家庭を持つにはどうしても、同様にキリスト教の教育を受けた女子が必要と考えたのである。 明治9年(1876)4月、新島とデイヴィスの要請を受けて、アメリカから女性宣教師....

52教精神を備えた青年を養成しても、彼らが家庭を持つにはどうしても、同様にキリスト教の教育を受けた女子が必要と考えたのである。 明治9年(1876)4月、新島とデイヴィスの要請を受けて、アメリカから女性宣教師のスタークウェザーが招かれた。八重は、彼女とともに当初から同女学校の経営に関わったが、やがて運営方針に絡んで、2人の間に不協和音が生じるようになる。ところで、スタークウェザーが来日した同じ月、新島は東京から父・民治、母・とみ、姉・美代、弟の養子・公きみ義よしを京都に外国人女性宣教師と   対立する八重17同社学志女校 女子教育に関心の高かった新島は、同志社英学校の開校からほどなく、同志社女学校(当初は同志社分校女紅場といった)を創設している。覚馬も「管見」の中で女子が学問をする必要性を説いているが、新島が目指したのは、自分たちのようなクリスチャン・ホームを日本にたくさん造ることであった。キリストスタークウェザー(1849 ~?)アメリカの女性宣教師派遣団体であるウーマンズ・ボードから派遣された独身女性宣教師。京都御苑内のデイヴィス邸で女子塾を開設。その後それは京都ホームとなり、さらに新島襄が認可を受けて同志社分校女紅場(のちの同志社女学校)とした。呼び寄せている。八重は、舅、姑、小姑と同居することになったわけであるが、キリスト教の洗礼を受け、自ら仕事を持つ「新しい女」である八重と、江戸時代の武家のしきたりが身に染みついた彼らとの間には、やはりしっくりいかないものがあったようだ。 一方で、八重がスター