修学旅行・校外学習ワークブック京都編

修学旅行・校外学習ワークブック京都編 page 8/24

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江戸時代 大坂夏の陣で豊とよ臣とみ家けを滅ぼした徳川家康は、幕ばくはんたいせい藩体制を確立し、江戸幕府を開いた。家康は二条城を築き、京都所しょ司し代だいを設置した。京都は人口が50 万人を超え、江戸、大....

江戸時代 大坂夏の陣で豊とよ臣とみ家けを滅ぼした徳川家康は、幕ばくはんたいせい藩体制を確立し、江戸幕府を開いた。家康は二条城を築き、京都所しょ司し代だいを設置した。京都は人口が50 万人を超え、江戸、大坂に継つぐ日本第三の経済・文化都市として繁栄した。徳川家康・秀ひでただ忠・家いえみつ光は、豊かな財源で京都の多くの寺社を再建させ、鎖さ国こく政策のもと、元げん禄ろく文化に代表される日本独自の文化が開花した。 1853 年6 月のペリーの浦うら賀が来航は、鎖国300 年の日本を混乱に陥おとしいれた。開国に踏み切った幕府を批判する勢力が天皇のいる京都に集結し、血なまぐさい騒乱の日がつづいた。二に条じょう城じょう 二条城は徳川幕府が京都御所を守護するための宿泊施設として徳川家康が造営した城。二の丸御殿は武家風書院造を代表する建物。狩か野のう派はのふすま絵、彫刻、二の丸庭園が有名。1867年には15 代将軍の徳川慶よし喜のぶが二条城に諸大名を集めて大たいせいほうかん政奉還を決議した。詩し仙せん堂どう 江戸時代の文ぶんじん人で徳川家康の側そっきん近でもあった石いし川かわ丈じょう山ざんが、晩ばんねん年をすごした山さんそう荘。丈山は狩か野のう探たん幽ゆうに中国の詩しか家36 人の肖しょう像ぞうを描えがかせ、みずから詩を書き加えたものを四し方ほうの壁かべにかかげたことから詩仙堂とよばれる。修しゅう学がく院いん離り宮きゅう 修学院離宮は後ご水みずの尾お上じょう皇こうによって造営された。上・中・下の3つの離宮からなり、借しゃっ景けいの手法をとりいれている。修学院離宮は将軍家が修繕費を援助し、歴代上皇の行ぎょうこう幸が続いた。西暦   内  容蛤はまぐり御ご門もんの変(禁門の変) 祇園祭の宵よいみや宮の時、三条小橋の池田屋に、新選組が切りこんで攘じょう夷い派はの志しし士を殺傷した。この池田屋事件により、長州藩は京で挙兵し、 京都御所の中なかだちうり立売・禁きんもん門・下しもだちうり立売の3門から攻撃を開始した。長州藩は幕府と手を組んだ会あい津づ藩はんや薩さつ摩ま藩はんに敗退した。京の町は27000 戸の町家と253 の寺社が焼失した。蛤御門の変で焼け野原になってしまった京の町を、人々は「京のどんどん焼け」とよんだ。14東ひがし本ほん願がん寺じ 徳川家康の寄き進しんによって創建された、浄じょう土ど真しん宗しゅう大おお谷たに派はの本ほんざん山。浄土真宗の祖である親しんらん鸞ゆかりの寺で、『教きょうぎょうしんしょう行信証』他、重要な文化財がある。京都では「お東ひがしさん」と親しまれている。現在の建物は明治に再建されたもの。歴史を訪ねる歴史の概観とこの時代に創建された名所・旧跡など1600 聚じゅらくだい楽第を移築し、西本願寺飛ひ雲うん閣かくを築く。1601 京都所しょ司し代だい設置。1602 徳川家康の援助で、東本願寺なる。1603 徳川家康、征夷大将軍となり江戸幕府を開く。1603 徳川家康、二条城築城。1603 出いず雲もの阿お国くに、「かぶき踊」を始めた。1605 宮本武蔵、京都の兵法家・吉岡一門と対決。1607 朝鮮出兵後はじめて朝鮮通信使節が入洛。1611 角すみの倉くら了りょう以いが高瀬川を開削着手。1615 大坂夏の陣。豊臣家滅亡。武ぶ家け諸しょ法はっ度と。1615 禁きん中ちゅう並ならびに公く家げ諸しょ法はっ度と。本山・末寺制度。1619 南座などの芝居小屋ができる。1619 本ほん阿あ弥み光こう悦えつ、鷹たかが峯みねに法ほっ華け信しん徒との町を開く。1623 淀よど城じょうが築かれる。1624 桂かつら離り宮きゅうの造営。1639 ポルトガル人の来航禁止( 鎖さ国こく)。1641 石いし川かわ丈じょう山ざん、一いち乗じょう寺じに隠いんせい棲し詩し仙せん堂どうを営む。1659 後ご水みずの尾お天皇が修学院に修学院離宮を造営。1661 明みんから渡来した隠いん元げん禅師、黄おお檗ばく山さん万まん福ぷく寺じを創建。1662 伊い藤とう仁じん斎さい、堀川下立売に私塾を開く。1688 この頃から西陣織が最盛期。数万人が機き業ぎょうに従事。1691 松尾芭ば蕉しょうが向むか井い去きょ来らいの草庵に滞在。    『嵯峨日記』を記す。1692 宮みや崎ざき友ゆう禅ぜん斎さいが文様染めを手がけ友禅染を考案。1729 石いし田だ梅ばい岩がんが車くるま屋や町ちょう御お池いけで心学の講釈を始めた。1780 『都みやこ名めい所しょ図ず会え』がベストセラーになった。1833 天てん保ぽうの大飢饉。1837 大おお塩しお平へい八はち郎ろうの乱。1841 天保の改革。1853 ペリー 浦うら賀が来航。1861 和かずの宮みや、将軍徳川家いえ茂もちに降こう嫁か。1864 池田屋事件。1864 禁きん門もんの変へん( 蛤はまぐり御ご門もんの変)。1867 大たい政せい奉ほう還かん。蛤御門(禁門)テ