武田家三代年表帖 下巻

武田家三代年表帖 下巻 page 9/20

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元亀4 5月13日将軍足利義昭(1537~1597)、武田信玄から反信長の誓書を受け取る。19075月13日家康、信玄の死を確認するため、長篠城(愛知県新城市長篠)を巡視、岡崎に帰る。19085月17日武田勝頼、「信玄・勝頼」....

元亀4 5月13日将軍足利義昭(1537~1597)、武田信玄から反信長の誓書を受け取る。19075月13日家康、信玄の死を確認するため、長篠城(愛知県新城市長篠)を巡視、岡崎に帰る。19085月17日武田勝頼、「信玄・勝頼」の連署の形をとって大和の岡周防守へ返書を出し、将軍足利義昭を奉じて上洛するという父信玄の意志に変わりないと伝える。19095月28日「信玄」の名で逍遥軒信綱(信玄弟、武田信廉)(1532 ?~1582)が、千野忠清へ名跡を安堵。19106月- 家康は、社やしろ山やま(静岡県磐田市社山)・合ごう代だい島じま(同市合代島)・渡わたが島しま(浜松市天竜区渡ヶ島)の諸砦を築き、二俣城(静岡県浜松市天竜区二俣町)に備え、長篠を攻撃する。19116月11日金山城(群馬県太田市金山町)の由良成繁(1506~1578)、上杉方による赤石城(群馬県伊勢崎市曲輪町)焼き討ちにより、藤生紀伊守(善久)(1547~1590)・金谷因播守(?~?)に桐生在城を命じ、備えを厳重にさせる。19126月21日武田勝頼、大だい藤とう与七へ「晴信」朱印で、父の大藤式部丞秀信(?~1572)の軍功を賞す。■式部丞は、元亀3年(1572)11月、二俣落城直前に銃弾に当たって戦死した。19136月22日武田家に帰属していた、三河国作つく手で の有力国人・奥平定さだ能よし(1537~1599)は、家康に、「信玄の死は確実なこと、貞能・信昌父子は、徳川帰参の意向であること」を伝える。19146月26日上杉謙信(1530~1578)、白井城(群馬県渋川市白井)主・長尾憲のり景かげ(1511~1583)に、「信玄果て候儀、必然に候」と伝える。19156月27日武田勝頼は、この日に初めて「勝頼」の名前で三輪次郎右衛門へ、武田氏当主の代替わりによる知行安堵状を発給した。それでも父信玄の「隠居」による代替わりとし、三年秘喪は固く守っていた。19166月30日武田勝頼は、三河の山やま家が 三さん方ぽう衆しゅうの(長篠城菅沼右近助・田峰城菅沼刑部丞・作手城奥平定能)に書状を送り、所領分配の裁定を伝えた。奥平貞能などに遠江新所・高部の一部を、菅沼刑部丞に武部の一部を安堵。同日、遠江の菅沼伊賀の軍功を賞し、所領を宛行う。19177月5日武田勝頼、天野小四郎景直(犬居城主天野景貫の次男)に知行を宛行う。以後、こうした代替わりの知行安堵文書を次々と出した。19187月6日武田勝頼、三河長篠城在城の小笠原信のぶ嶺みね(1547~1598)に、在城料として遠江井伊谷の地を宛行う。19197月9日これより先、上杉謙信(1530~1578)、徳川家康(1543~1616)に信濃・甲斐出兵を求む。この日、家康、之を諾し、織田信長(1534~1582)の出兵をも促すべきを答える。19207月14日北条氏政(1538~1590)、一向宗長延寺の実了師慶へ書状を送り、代替わりした武田勝頼(1546~1582)との同盟(第二次甲相同盟)の趣旨を伝える。■「長延寺実了師慶」は上杉憲政の一族で、上杉家没落後武田信玄の呼びかけにより来甲、長延寺を開いたという。実了は信玄の各国使者として、主に伊勢長島・大坂・一向宗・越後上杉氏へと赴いた。長延寺二世となったのが、顕了道快(1574~1643)。武田信道ともいい、武田竜宝(信玄二男)(1541~1582)の子。武田家滅亡時、竜宝は入明寺で自害するが、顕了は父竜宝に逃がされ信濃に隠れた。1921西暦1573その時家康・景勝・氏政は、そして秀吉は、 武田家三代年表帖(下巻) 勝頼と真田一族の顛末39