武田家三代年表帖 下巻

武田家三代年表帖 下巻 page 5/20

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西暦和暦月日出来事掲載頁1573元亀44月16日武田勝頼、信玄の葬式を恵林寺で営む。18976月27日武田勝頼は、この日に初めて「勝頼」の名前で三輪次郎右衛門へ、武田氏当主の代替わりによる知行安堵状を発給した。19167....

西暦和暦月日出来事掲載頁1573元亀44月16日武田勝頼、信玄の葬式を恵林寺で営む。18976月27日武田勝頼は、この日に初めて「勝頼」の名前で三輪次郎右衛門へ、武田氏当主の代替わりによる知行安堵状を発給した。19167月14日北条氏政(1538~1590)、一向宗長延寺の実了師慶へ書状を送り、代替わりした武田勝頼(1546~1582)との同盟(第二次甲相同盟)の趣旨を伝える。19217月18日「室町幕府、滅亡」。19221573天正17月28日この日、「天正」と改元される。19258月- 武田勝頼、武田氏に縁のある勢力・寺社に対して、正式に家督相続を伝える。19308月20日「朝倉家滅亡」。織田勢に攻められて、朝倉義景(1533~1573)、自害。19338月21日武田家家臣であった奥平貞昌(後の奥平信昌)は、武田信玄の死に際し、父・定能(貞能)の決断により、一族郎党の大半を率いて亀山城(作手城)(愛知県新城市作手清岳)を退去して徳川方へ寝返る。19359月1日「浅井家滅亡」。浅井長政29歳(1545~1573)、織田信長(1534~1582)に攻められ自刃。19429月8日「家康、長篠城を開城」。これより先、徳川家康(1543~1616)、三河に入り室賀信俊(?~1575)らを同国長篠城(愛知県新城市長篠)に攻める。武田勝頼は、信濃勢らをして室賀信俊らを授けようとするも、この日、長篠城は落ち、信俊は、同国鳳来寺に奔る。194511月- この月、武田勝頼、1万5千人を率いて遠州に乱入、浜松東方の天竜川対岸の見附に陣し、掛川・久能(静岡県袋井市久能)を放火して浜松城近くまで接近。19521574天正21月9日上杉謙信(1530~1578)、西上野経略をせんと、徳川家康(1543~1616)に、織田信長(1534~1582)と共に甲斐・信濃への出兵を要請する。19551月27日「武田勝頼、美濃に侵攻」。勝頼、美濃岩村口に出陣。19582月7日「武田軍、明知城攻略」。武田勝頼、信長の援軍を失った美濃国明知城((岐阜県恵那市明智町))内の飯狭間右衛門を内応させて攻略するという。19653月- この月、信長は上杉謙信との同盟関係維持を望み、狩野永徳筆「洛中洛外図屏風」一双を上杉謙信に贈る。19785月3日武田勝頼、2万5千の兵で甲府を発ち、遠江に出陣。19835月12日「第一次高天神城の戦い―5月12日~6月18日」はじまる。武田勝頼(1546~1582)は、徳川方の高天神城(静岡県掛川市上土方・下土方)を攻撃、包囲する。19865月19日武田勝頼の将・信濃の真田弾正忠幸綱(真田幸隆、幸村祖父)(1513~1574)、上野吾妻の岩櫃城(群馬県吾妻郡東吾妻町)で病没。享年62。19886月18日「第一次高天神城の戦い―5月12日~6月18日」終結。織田・徳川氏の来援が遅れたため、籠城する小笠原氏助(長忠、信興)(高天神城将)(?~?)は、織田・徳川氏の来援が遅れたため、武田家臣穴山信君(梅雪)(1541~1582)の講和に応じて降伏、武田に降る。20007月下旬武田勝頼、遠江から甲府に帰陣し、戦功に対する恩賞を給付。20088月24日本願寺顕如光佐(1543~1592)、武田勝頼に、伊勢長島への赴援を求める。201415目次