武田家三代年表帖 下巻

武田家三代年表帖 下巻 page 3/20

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田氏の居城である甲府の躑躅ヶ崎館へ迎え側室とするとされる。天文15年(1546)に勝頼が誕生する。頼重遺児の千代宮丸は諏訪惣領家を相続することなく廃嫡されており、同年8月28日には千代宮丸を擁立していた諏訪満....

田氏の居城である甲府の躑躅ヶ崎館へ迎え側室とするとされる。天文15年(1546)に勝頼が誕生する。頼重遺児の千代宮丸は諏訪惣領家を相続することなく廃嫡されており、同年8月28日には千代宮丸を擁立していた諏訪満隆が切腹を命じられる。満隆は、信玄と諏訪御料人との間に生まれた子(諏訪勝頼)の諏訪家継承が決定すると、不満を抱いて反乱を起こしたが鎮圧された。勝頼は、躑躅ヶ崎館で母と共に育ったと考えられているが、その母諏訪御料人は、天文24年(1555)に病没した。永禄4年(1561)5月7日、信玄は、五男の盛信に「仁科」を、次男・竜芳(信親)に海野幸義の娘を娶らせ海野民部丞の養子となり「海野」を継がせ、香坂弾正宗重の娘を娶っていた春日弾正(春日虎綱/高坂昌信)に「香坂」を名乗らせる。同年9月、信玄は信州を平定。同年、勝頼は元服。永禄5年(1562)6月、四男勝頼は、諏訪頼重の家跡を継ぎ、諏訪四郎神勝頼となり、高遠城主に就任する。永禄8年(1565)9月9日、信玄は、織田信長の養女(遠山夫人、龍勝院))を勝頼の妻とすることを了承し、武田、織田両家の同盟締結を決める。織田・武田の相互不干渉を約束した。同年11月13日、その婚儀。(甲尾同盟」。永禄10年(1567)11月1日、勝頼と遠山夫人の間に、長男・信勝が、伊那高遠城に生まれる。遠山夫人は、産後の肥立ち悪く、死去する。元亀2年(1571)9月16日に死去ともいう。永禄8年(1565)10月15日、勝頼の異母兄で武田家後継者であった義信の家臣らが信玄暗殺の密謀のため処刑され、義信自身も幽閉され、今川義元の娘嶺松院と強制的離縁の上、後継者としての地位を失う。永禄12年(1569)10月には、父信玄と共に北条軍と三増峠に戦い、12月には、駿河蒲原城で北条軍と戦い、撤退させる。永禄13年(1570)1月には今川方駿河花沢城攻め、同年4月10日には信玄は、駿河攻略に当たって将軍義昭に駿河国で1万疋の御料所と近臣一色藤長に五千疋の地を進献すると約束、あわせて四郎勝頼に任宮と偏諱を請うた。勝頼は、元亀1年(1570)8月9日には北条方の伊豆韮山城攻めなど奮戦、同年(1570)8月30日には、信濃衆に駿河沼津城を普請させている。同年12月、勝頼は、高遠城から父信玄の帷幕に入る。勝頼、跡取の地位を確保。次兄の竜宝は生まれつきの盲目のために出家し、三兄の信之は夭逝していることから、勝頼が信玄の指名で後継者と定められる。元亀3年(1572)11月24日、正親町天皇の意を受けて、武田勝頼は初めて、父信玄の代権として駿河国臨済寺に、寺中定書を発給した。3武田勝頼の生涯