武田家三代年表帖 下巻

武田家三代年表帖 下巻 page 19/20

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天正3 3月16日「今川氏真、織田信長に出仕」。今川氏うじ真ざね(1538~1615)、京都相国寺に於いて織田信長(1534~1582)に謁し百端帆釣花入を進上。以前進上した千鳥の香炉、宗祗香炉の内、宗祗香炉を返される。....

天正3 3月16日「今川氏真、織田信長に出仕」。今川氏うじ真ざね(1538~1615)、京都相国寺に於いて織田信長(1534~1582)に謁し百端帆釣花入を進上。以前進上した千鳥の香炉、宗祗香炉の内、宗祗香炉を返される。さらに、百端帆(木綿百反を繋いで作った大きな帆)を進上。織田信長が2年前に建造した大船用として贈進。■氏真は、徳川家康の同盟者にして「父の仇」でもある織田信長と会見、信長は氏真に蹴け 鞠まりを所望。20503月20日織田信長、京都相国寺に於いて今川氏真と公家衆との蹴鞠を見物。20513月- この頃、織田信忠(1555/1557~1582)、尾州衆を率いて三河国足助(愛知県豊田市足助町)に侵攻してきた武田勝頼を迎撃するため出陣。20523月- 織田信長(1534~1582)、対武田戦に兵糧米2千俵を徳川家康(1543~1616)に送り、3百俵は長篠城に分配。20534月1日武田勝頼は、甲府を出立する予定で上野国衆安あん中なか景かげ繁しげ(?~1575)には、3日までの諏訪上原(長野県茅野市)参陣を命じた。しかし利根川氾濫の仕置と重なり武田軍の実際の出陣はかなり遅れた。20544月5日武田勝頼(1546~1582)、箕輪城代・内藤昌秀(昌豊)(1522~1575)に手紙を書いて、12日に着府するよう命じる。20554月12日「信玄の三回忌法要」。武田勝頼は、恵林寺で父信玄の喪明けの葬儀を内々で行う。ついで、本格的京都進攻を表明する。20564月13日武田勝頼、上野箕輪在城の内藤昌秀に、三河長篠城攻開作戦への出陣を催促。20574月15日「武田勝頼、三河侵入」。家康と謙信の同盟を知った武田勝頼は、父信玄の死により凍結されていた徳川攻めを再開し、信濃より三河に入り、徳川方・足助城を囲む。20584月19日「三河足助城の戦い」。武田勝頼、鈴木(鱸)越後守重直父子を足助城(真弓山城)(愛知県豊田市足助町)に攻めて、この日、之を降す。ついで、秋山虎繁(信友)(1527~1575)配下の伊那郡下条信のぶ氏うじ(1529~1582)をして、同城番とする。20594月21日「勝頼、青崩峠を越えて遠江侵攻」。20604月28日武田勝頼、山県昌景(1529~1575)・小笠原信のぶ嶺みね(1547~1598)らをして、徳川家康方の吉田城等を攻める。20614月28日武田勝頼(1546~1582)、上杉輝虎牽制のために、加賀一向一揆の主将・杉浦紀伊守に書を送り、三河の足助城攻略を伝え、足利義昭の要請で三河・尾張に侵攻する決意を示す。また信長が本願寺を攻撃するという風聞を踏まえて後詰めの手配を求めると共に、上杉謙信が越中に進軍した場合は、加賀越前の本願寺派門徒を動員するよう要請する。20624月29日武田勝頼、足助落城のあと、三河の浅ヶ谷、阿あ摺すり、大沼、田代、八や桑くわなどの諸城を陥す。20634月29日「二連木合戦」。武田軍、吉田城来援に来た家康の臣・酒井忠次(1527~1596)と二連木(愛知県豊橋市仁連木町)で戦う。武田勢は、二連木城主・戸田康長(1562~1633)に城を放棄させ、援軍にきた家康軍を敗走させる。20644月29日家康(1543~1616)、また浜松より来援し吉田城(愛知県豊橋市)に入る。武田勝頼は、牛久保長沢を掠めて去る。2065西暦1575その時家康・景勝・氏政は、そして秀吉は、 武田家三代年表帖(下巻) 勝頼と真田一族の顛末49