武田家三代年表帖 下巻

武田家三代年表帖 下巻 page 18/20

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天正2 閏11月9日武田勝頼、上杉軍の攻撃を受けていた北条氏政支援のため、上野国衆浦野宮内左衛門尉に利根川以東への出陣を命じる。2031閏11月11日真田信綱、小県郡蓮華童子院に、四阿山別当職を安堵する。2032閏11....

天正2 閏11月9日武田勝頼、上杉軍の攻撃を受けていた北条氏政支援のため、上野国衆浦野宮内左衛門尉に利根川以東への出陣を命じる。2031閏11月11日真田信綱、小県郡蓮華童子院に、四阿山別当職を安堵する。2032閏11月18日武蔵・下総における北条氏政との対決の敗北を悟った上杉謙信、武蔵羽生城(埼玉県羽生市)を破却し、騎西城に放火。2033閏11月19日撤退を開始した上杉謙信(1530~1578)、この日、上野国厩橋城に入る。2034閏11月19日北条軍、関宿城(千葉県野田市関宿三軒家)を開城。2035閏11月- 北条氏と佐竹氏・宇都宮氏が、和睦。203612月- 上杉謙信、越後帰国。203712月10日武田勝頼(1546~1582)、木曾義昌(1540~1595)に、美濃国平定の後、所領を宛行うことを約す。203812月16日梁田持助(1549~1587)、関宿城を北条氏政(1538~1590)に渡す。203912月19日上杉謙信(1530~1578)、剃髪して、高野山の僧・清せい胤いんを師として護摩灌頂を執行し、法印大和尚に任じられる。2040西暦1575天正3 1月11日上杉謙信、養子の喜平次顕景に加冠して、名を「景勝」(1556~1623)と改め、弾上少弼を称させる。20411月13日今川氏うじ真ざね(1538~1615)、上洛のため浜松を出発20421月下旬武田勝頼、三河足助口(愛知県豊田市)に軍勢を動かす。20432月15日徳川家康(1543~1616)、遠江国浜松での放鷹の際に、虎松(後の井伊直政)(1561~1602)を召し抱えるという。直政は、徳川四天王の一人。■直虎(次郎法師)(?~1582)、家康に出仕する際、虎松に衣服を贈る。■直虎(次郎法師)・南なん渓けい瑞たん聞ぶん(?~1589)・養父松下源太郎(清景)・実母の画策により松下虎松(15歳)が、小野朝之(小野但馬守の甥・母は奥山朝利の娘で直政と従兄弟)を連れて徳川家康に会見。家康は虎松を松下から井伊に復姓させる。その時、家康は自分の幼名「竹千代」にちなみ「万千代」の名前を与え、お供の朝之には「万福」を与えた。万千代は、後には、300石で家康の小姓として取り立てられる。20442月16日上杉謙信(1530~1578)、諸将の軍役を定める。「上杉家軍役帳」。20452月26日これより先、織田信長(1534~1582)、小笠原貞さだ慶よし(1546~1595)に書を送り、共に信濃に出陣せんことを勧める。この日、信長の将・河尻秀隆(1527~1582)、貞慶に決意を促す。貞慶は、織田信長に仕えて関東における諸大名への対武田交渉を担当していた。20462月28日徳川家康、奥平貞昌(後の信昌)に、三河国長篠城(愛知県新城市長篠)の守備を命令。20473月1日武田勝頼、西上野先方衆・安あん中なか景かげ繁しげに、諏訪郡上原城(長野県茅野市ちの)へ参陣を命ずる。20483月6日武田勝頼、使者に山県昌景(1529~1575)を代参として高野山を登らせ、成せい慶けい院いんに、父・信玄の三回忌の塔婆を立てる。2049西暦157448