武田家三代年表帖 下巻

武田家三代年表帖 下巻 page 16/20

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天正2 6月18日「第一次高天神城の戦い―5月12日~6月18日」終結。織田・徳川氏の来援が遅れたため、籠城する小笠原氏助(長忠、信のぶ興おき)(高天神城将)(?~?)は、織田・徳川氏の来援が遅れたため、武田家....

天正2 6月18日「第一次高天神城の戦い―5月12日~6月18日」終結。織田・徳川氏の来援が遅れたため、籠城する小笠原氏助(長忠、信のぶ興おき)(高天神城将)(?~?)は、織田・徳川氏の来援が遅れたため、武田家臣穴山信君(梅雪)(1541~1582)の講和に応じて降伏、武田に降る。■寄手武田軍により、城兵大石外記氏久と川田平太郎直勝は討死。討死士分37人・足軽18人・負傷57人。寄手武田軍死傷253人。■この時、城に立て籠もっていた徳川家臣・大河内政まさ局ちかは、武田方に下る事を拒否し、怒った武田勝頼により城内の牢に監禁される。■小笠原氏助は、駿河庵原郡・富士郡(下方荘鸚鵡栖)において1万貫(十万石相当)と国替され、高天神城番は、横田甚五郎尹ただ松とし(ただまつ)(1554~1635)となる。のち岡部長なが教のり(元信)(?~1581)が替わる。横田尹松は、大河内政局の義に感じ、様々な配慮をしていたという。20006月19日織田信長、三河国今切を渡る前に小笠原氏助(長忠、信興)の「逆心」により遠江国高天神城が陥落した旨を知り、三河国吉田城(豊橋市今橋町)へ引き返す。20016月19日織田信長(1534~1582)、遠州浜松から礼参の家康(1543~1616)に、兵糧代として黄金を皮袋二つ分を与え遅参を詫びる。20026月19日武田勝頼、武田軍が横路郷(静岡県掛川市)の郷中で乱暴を働くことを禁止する高札を掲げ、華厳院(掛川市上土方落合)にも同様の高札を出す。20036月29日織田信長、上杉謙信へ全7ヶ条の「覚」を発す。その内容は山崎専柳斎(上杉使者)と対面したこと、信長が信濃国・甲斐国へ出陣しないのは五畿内・江北・越前国方面での戦闘に集中していたためであること、上杉謙信からの来秋の信濃国・甲斐国方面への出撃要請を承諾したこと、9月上旬頃の出陣を予定しているが、詳細な日限は協議の上で決定すること、武田勝頼は若輩ではあるが「信玄掟」を遵守しており表裏もあるので油断は出来ないこと、信長が謙信からの五畿内表に執心せず信濃国・甲斐国方面に尽力するという要請は承諾したこと、大坂表の件は畿内の軍勢に委任し、「東国」への軍事行動は近江国・尾張国・美濃国・三河国・遠江国の軍勢で出撃すること等を通知。20047月9日武田勝頼(1546~1582)により、高天神衆の知行安堵がなされ、その後、降伏した小笠原氏助は、武田氏の通字「信」を与えられ、信のぶ興おきに改名する。20057月26日北条氏政(1538~1590)、由ゆ良ら成なり繁しげ(1506~1578)の求めに応じ、弟氏照(北条氏康の三男)(1540~1590)を派遣し、上野厩まや橋ばし城じょう(群馬県前橋市大手町)を攻める。この日、上杉謙信(1530~1578)、兵を遣し、同城を赴援する。20067月27日北条氏政、弟氏照をして、上杉方の梁田晴助(1524~1594)・持助(1549~1587)父子を下総関宿城(千葉県野田市関宿三軒家)に攻める。梁田持助は、宇都宮広綱(宇都宮城主)(1545~1576)に頼り、謙信の出兵を求む。20077月下旬武田勝頼、遠江から甲府に帰陣し、戦功に対する恩賞を給付。20088月1日徳川家康、この日から馬伏塚城(静岡県袋井市浅名)の大改修を行い、大須賀康高(1527~1589)を城主に任命し、高天神城攻略の拠点として位置づける。20098月1日武田勝頼(1546~1582)は、上杉謙信の関東出兵に備え、上野国衆・小幡信真(信貞)(1540~1592)に、北条氏への援軍として出陣するよう指示する。20108月4日武田勝頼、石山本願寺の執事・下しもつ間ま頼らい廉れん(1537~1626)の要請で、伊勢長島への後詰めの出陣を約束する。2011西暦157446