武田家三代年表帖 下巻

武田家三代年表帖 下巻 page 14/20

電子ブックを開く

このページは 武田家三代年表帖 下巻 の電子ブックに掲載されている14ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「電子ブックを開く」をクリックすると今すぐ対象ページへ移動します。

概要:
天正2 3月26日上杉謙信(1530~1578)、金山城攻めのため、藤阿久(群馬県太田市藤阿久町)に陣を張る。19743月27日倉賀野城(群馬県高崎市倉賀野)奪還を目論んで東上野に潜伏した、上杉方倉賀野尚行(?~?)、北....

天正2 3月26日上杉謙信(1530~1578)、金山城攻めのため、藤阿久(群馬県太田市藤阿久町)に陣を張る。19743月27日倉賀野城(群馬県高崎市倉賀野)奪還を目論んで東上野に潜伏した、上杉方倉賀野尚行(?~?)、北条方由良攻めにおける戦況を、北きた条じょう家臣・北条高定(?~?)らに報告する。19753月下旬武田軍、三河足助口(愛知県豊田市)を攻撃し、引き続き長篠城(愛知県新城市長篠)奪回に向けた軍事行動を続ける。19763月30日武田勝頼、木曾家臣山村良よし利とし(1514~1599)・良よし候とき(1547~1602)父子に、父信玄が美濃で与えた知行分を安堵し、かつて今川氏に仕えていた岡部元信(?~1581)に知行を宛がう。19773月- この月、信長は、上杉謙信との同盟関係維持を望み、狩野永徳筆「洛中洛外図屏風」一双を上杉謙信に贈る。19784月- この月、徳川家康(1543~1616)、武田家に寝返った遠江犬居城(静岡県浜松市天竜区春野町堀之内)を攻める。大須賀康高(1527~1589)・本多忠勝(1548~1610)・榊原康政(1548~1606)は「遠州衆」を率いており、中でも康高は横須賀衆を引率し殿しんがりをつとめた。しかし、気田川増水のため攻略できずに撤退する。19794月6日徳川家康軍、犬居攻略の帰途、田能・大窪村で犬居城主の天野景かげ貫つら軍および郷民の奇襲を受ける。かなりの死傷者を出すも、大須賀康高(1527~1589)・大久保忠ただ世よ(1532~1594)らの奮戦で、三倉を経てなんとか天方城(静岡県周智郡森町向天方)に退く。『三河物語』。19804月13日「第二次利根川の対陣」。武蔵における上杉方最後の拠点である羽は 生にゅう城じょう(埼玉県羽生市東)を救援するため上杉謙信(1530~1578)は、北条氏政(1538~1590)と利根川を挟んで対峙する。進んで由ゆ良ら成なり繁しげ(1506~1578)の金山城(群馬県太田市)を攻め、武蔵鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)、忍おし城じょう(埼玉県行田市)・騎西城(埼玉県北埼玉郡騎西町)領内に放火する。19814月13日武田勝頼(1546~1582)、箕輪城代内藤昌秀(昌豊)(1522~1575)へ、利根川水位を確認し、20日までに岩村田(長野県佐久市)まで着陣するよう命じる。19825月3日武田勝頼、2万5千の兵で甲府を発ち、遠江に出陣。時期等異説あり。19835月5日武田信のぶ廉かど(逍遙軒信綱、武田信虎の六男)(1532 ?~1582)、父信虎の肖像画を描かせる。画賛を春国光新(長禅寺住職)に依頼した後、信虎葬儀の際、大泉寺(山梨県甲府市古府中町)に収める。父の信虎が信玄の死後に帰国を望んだため、信廉が信虎の身柄を引き取り、居城である高遠城(長野県伊那市高遠町)に住まわせていた。19845月- 「第二次利根川の対陣」、終わる。増水していた利根川を渡ることは出来ず、上杉謙信は、越後に帰国。19855月12日「第一次高天神城の戦い―5月12日~6月18日」はじまる。武田勝頼(1546~1582)は、徳川家康配下・小笠原氏助(長忠、信のぶ興おき)(?~?)の高たか天てん神じん城じょう(静岡県掛川市上土方・下土方)を攻撃、包囲する。19865月16日1万兵の徳川単独では後詰は不可能だとも理解していた徳川家康(1543~1616)は、織田信長(1534~1582)に、高天神城の援軍を要請。19875月19日武田勝頼の将・信濃の真田弾正忠幸綱(真田幸隆、幸村祖父)(1513~1574)、上野吾妻の岩櫃城(群馬県吾妻郡東吾妻町)で病没。享年62。墓所は長野県上田市真田町の曹洞宗真田山長ちょう谷こく寺じ 。長男信綱(1537~1575)が正式に嗣ぐ。1988西暦157444