武田家三代年表帖 下巻

武田家三代年表帖 下巻 page 13/20

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天正2 1月27日「武田勝頼、美濃に侵攻」。勝頼(1546~1582)、美濃岩村口に出陣し、また織田方となった岩村城(岐阜県恵那市岩村町)付城18城を次々と攻略、明知城(明智城)(岐阜県恵那市明智町城山)へ向かう。....

天正2 1月27日「武田勝頼、美濃に侵攻」。勝頼(1546~1582)、美濃岩村口に出陣し、また織田方となった岩村城(岐阜県恵那市岩村町)付城18城を次々と攻略、明知城(明智城)(岐阜県恵那市明智町城山)へ向かう。■勝頼は、櫛くし原はら城じょう(恵那市)や神こ 箆おの城じょう(鶴ヶ城)(瑞浪市土岐町)を攻略したという。19582月1日織田信長、武田勝頼が攻囲している美濃国明知城へ、尾張衆・美濃衆から編制された先陣を派遣。19592月5日この日、上杉謙信、上野沼田城(群馬県沼田市)に入り、さらに、兵を西上野に進め、家康及び信長と策応して、武田勝頼を撃たんとする。19602月5日上杉謙信(1530~1578)、上野金山城の北条方由良成繁(1506~1578)を攻める。また、家臣後藤勝元(新六)に北条氏政の動向を注進するよう命ずる。19612月6日織田信長(1534~1582)・織田信忠(1555/1557~1582)、美濃国明知城救援のために山中を行軍、明知城の西方鶴岡山に布陣。19622月6日武田勝頼(1546~1582)、昨年12月着の手紙をよこした、丹波国の荻野悪右衛門尉(赤井直正)(1529~1578)に、共同して信長と戦うと書状を送る。19632月7日武田勝頼、山県三郎兵衛昌景(1529~1575)に命じて兵6千で信長の退路を断つ。■明知城救援の信長は、山岳戦の不利を思い、動かず、やがて兵を撤退。信長、高野に城を普請して河尻秀隆(1527~1582)を入れ、また小里にも付城を築いて池田恒つね興おき(1536~1584)に守らせ、武田勢に備えさせた。19642月7日「武田軍、明知城攻略」。武田勝頼、信長の援軍を失った美濃国明知城(岐阜県恵那市明智町)内の飯狭間右衛門を内応させて攻略するという。■飯いい狭ば間ま右衛門(遠山友信)による謀反が起こり、援軍として在城する坂井越中守を滅ぼし、また搦手水の口曲輪が破られ城郭・城下は火の海となり、城は武田方の手に渡った。戦死者五百を数えた。この戦いで遠山十八城のうち明知城は17番目に落城した。19653月5日武田信虎(1494~1574)、信濃国高遠で没。享年81。19663月6日武田勝頼(1546~1582)、父信玄の菩提を弔うため高野山に塔婆を建てる。19673月7日武田勝頼、祖父信虎の葬礼に信濃竜雲寺の北ほっ高こう全ぜん祝しゅく(1507~1587)の参府を促す。19683月13日徳川家康(1543~1616)、村上国清(山浦景国、村上義清の子)(1546~1603 ?)に書を送り、上杉謙信(1530~1578)の上野出兵を謝し、併せて、駿河出陣を約す。19693月- 上杉謙信、膳ぜん城じょう(群馬県前橋市粕川町膳)・女淵城(同粕川町女渕)・深沢城(桐生市黒保根町宿廻)・山上城(桐生市新里町山上)・御覧田城(群馬県みどり市東町荻原字関守)を立て続けに攻め落とし戦果をあげる。19703月19日家康家臣石川数正(1533~1593)、上杉氏に駿河攻撃の協力を要請する。19713月20日紀州由良(和歌山県日高郡由良町)の興国寺に亡命している足利義昭は、武田勝頼・上杉謙信・北条氏政に、互いに講和することを命じ、徳川家康と本願寺顕如と共に、室町幕府の再興に尽力することを指示。謙信には、自分が上洛できたなら、天下の政治はこれを任せると甘言をいう。19723月20日足利義昭(1537~1597)、水野信元(家康の生母・於大の方(伝通院)の異母兄)(?~1576)に御内書を送り、武田勝頼と協力して信長を討伐せよと促す。1973西暦1574その時家康・景勝・氏政は、そして秀吉は、 武田家三代年表帖(下巻) 勝頼と真田一族の顛末43