武田家三代年表帖 下巻

武田家三代年表帖 下巻 page 12/20

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天正1 9月8日「家康、長篠城を開城」。これより先、徳川家康(1543~1616)、三河に入り室賀信俊(?~1575)らを同国長篠城(愛知県新城市長篠)に攻める。武田勝頼(1546~1582)は、信濃勢らをして室賀信俊らを授....

天正1 9月8日「家康、長篠城を開城」。これより先、徳川家康(1543~1616)、三河に入り室賀信俊(?~1575)らを同国長篠城(愛知県新城市長篠)に攻める。武田勝頼(1546~1582)は、信濃勢らをして室賀信俊らを授けようとするも、この日、長篠城は落ち、信俊は、同国鳳来寺に奔はしる。長篠菅沼氏6代目当主・菅沼正貞(?~1582)は、武田軍に甲斐府中に連れ去られる。19459月8日武田勝頼、真田幸綱の長男信綱へ返書を出し、遠江に出陣している者たちに、二俣を通って長篠に軍勢を向けるよう命令を下した、長篠での勝利は疑いないので安心するようにと記す。19469月21日本願寺、武田信玄に対する隠居祝、勝頼には家督相続祝いを贈る。■勝頼は、本願寺に対して父信玄の隠居と勝頼の家督梱続を披露していた。19479月21日この日、武田勝頼は、甲斐二宮の美和神社(山梨県笛吹市)へ願文を捧げた。■目的は二つ、一つは武田氏の家督を継承し、甲斐の国主になったことを神に報告すること。もう一つは、家督相続に反対する勢力が甲府にあり、二宮を通じて彼らに圧力をかけることであった。19489月29日これより先、飛騨の姉小路頼綱(1540~1587)が武田氏を離反。勝頼はこの日、飛騨出陣の意向を示す。194911月1日武田家、軍事条目。戦闘に当たっては、家臣が知行役相当に火薬を用意しておくようにと要請。195011月22日武田の将・真田信綱(幸隆の長男)(1537~1575)、河原又次郎(河原隆正の三男)(1560 ?~1634 ?)に、「綱家」の名乗を許す。195111月- この月、武田勝頼、1万5千人を率いて遠州に乱入、浜松東方の天竜川対岸の見附に陣し、掛川・久く能の(静岡県袋井市久能)を放火して浜松城近くまで接近。195212月28日織田信長、伊達輝宗へ逸物の鷹を献上されたことを謝し、足利義昭は嫡男・足利義ぎ尋じんを人質として提出し、「京都有御退城」って紀伊国熊野へ流浪していること、武田信玄が病死したこと、朝倉義景を「刎首」し越前「一国平均」したこと、その後に若狭国・能登国・加賀国・越中国は全て織田信長「分国」として織田信長「存分」に属したこと、「五畿内之儀」は言うに及ばず「中国」(毛利領国)に至るまで織田信長「下知」の及ぶ地域となったこと、来年は武田氏に対する軍事行動の予定、更に北条氏を「成敗」する予定を通知し協力を要請。1953― この年、武田信虎(1494~1574)、武田信玄の死を聞き33年目にして、信州高遠まで帰る。宿舎は縁者・彌津甚平の家であった。1954西暦1574天正2 1月9日上杉謙信(1530~1578)、西上野経略をせんと、徳川家臣の榊原康政(1548~1606)に書状を送り、徳川家康(1543~1616)に、織田信長(1534~1582)と共に甲斐・信濃への出兵を要請する。19551月- 徳川家康、駿河に侵攻。田中城(静岡県藤枝市田中)を攻める。19561月18日「謙信の第十四次関東遠征」。上杉謙信、上野国西部に出撃。1957西暦157342