武田家三代年表帖 下巻

武田家三代年表帖 下巻 page 11/20

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天正1 8月17日これより先、武田方の小県郡室賀信俊(?~1575)は、三河長篠に篭城した。この日、壱叶(信俊の妻)等、信俊の無事を、同郡下之郷の大明神生嶋足嶋神社(生島足島神社)(長野県上田市下之郷中池西)....

天正1 8月17日これより先、武田方の小県郡室賀信俊(?~1575)は、三河長篠に篭城した。この日、壱叶(信俊の妻)等、信俊の無事を、同郡下之郷の大明神生嶋足嶋神社(生島足島神社)(長野県上田市下之郷中池西)に祈る。19318月19日武田勝頼、高野山成慶院に返書を出し、家督相続の祝いと武田家繁栄を祈?した巻数を送ってきたことへの礼を述べる。19328月20日「朝倉家滅亡」。越前一乗谷、織田勢に攻められて陥落。朝倉義景(1533~1573)、越前国賢松寺にて自害。19338月20日織田信長、上杉謙信へ全7ヶ条の「覚」を通知、足利義昭の追放および越前攻略と朝倉氏を滅ぼしたことらを報告。19348月21日武田家家臣であった奥平貞昌(後の奥平信昌)(1555~1615)は、武田信玄の死に際し、父・定さだ能よし(1537~1599)の決断により、一族郎党の大半を率いて亀山城(作手城)(愛知県新城市作手清岳)を退去して徳川方へ寝返る。■家康は、信長の意見を入れ、定能に家康長女亀姫と貞昌(信昌)の婚約、領地加増、定能の娘を本多重純(本多広孝の次男)に入嫁させることを提示した。家康は三方原の敗戦から衰えていた勢いを盛りかえすため、奥平氏を味方につけた。19358月21日上杉謙信(1530~1578)、関東諸将の要請により越中から帰国し、関東出陣準備をすすめる。19368月21日北条氏政(1538~1590)が上野国へ進入。19378月25日武田勝頼(1546~1582)、山県昌景(1529~1575)に書状を出し、長篠城(愛知県新城市長篠)の奪還について穴山信君・逍遥軒信綱・岡部元信・岡部正綱・朝比奈信置らと相談するように命じる。19388月25日武田信のぶ廉かど(逍遙軒信綱、武田信虎の六男)(1532 ?~1582)・穴山信のぶ君ただ(梅雪)(1541~1582)・朝比奈信置(1528~1582)・岡部丹波守元信(?~1581)・岡部正綱(1542~1584)、信濃より犬居谷を経て浜松方面に出陣。■岡部元信は、今川義元の没後は氏真に仕えたが、永禄11年(1568)12月、武田信玄の駿河侵攻によって氏真が駿府を追われると降伏して武田家に仕えた。19398月26日奥平定さだ能よし・信昌父子の徳川帰参を受け、武田勝頼は、奥平が差し出していた人質3人を処刑。■元亀2年(1571)、作手亀山城主奥平貞能と長男貞昌(後の信昌)が武田信玄に降伏した時、貞能次男仙千代(10歳)、萩城(愛知県豊川市萩町字下の坪)主奥平周防勝次の次男虎之助(13歳)、岡崎の日ひ 近ぢか城じょう(愛知県岡崎市桜形町)主奥平貞友の娘於フウ(13歳)と共に人質として甲斐に送られていた。19408月- この月、上杉謙信(1530~1578)、越中に入り一向一揆を平定。一揆と和睦する。19419月1日「浅井家滅亡」。浅井長政29歳(1545~1573)、織田信長(1534~1582)に攻められ小谷城本丸に於いて自刀。(日時等異説あり)。19429月2日本願寺顕如(光佐)から、勝頼の家督相続を祝して太刀一腰と馬一疋を贈られる。19439月7日織田信長、毛利輝元・小早川隆景に、逃れてきた今川氏真を、黙止しがたく受け入れ、駿河を取戻す為、出兵を助けると伝える。また、「甲州の信玄病死候。その跡の体は相続き難く候」と記す。1944西暦1573その時家康・景勝・氏政は、そして秀吉は、 武田家三代年表帖(下巻) 勝頼と真田一族の顛末41