新選組おもしろばなし百話

新選組おもしろばなし百話 page 19/20

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19郎、粕谷新五郎、阿あ比び留る鋭えい三ざぶ郎ろうの4人を加えている。 また、『新選組始末記』には、この他20名説、25名説(田中伊織、新田革左衛門、葛山武八郎、松原忠治、安藤早太、河合耆三郎、酒井兵庫、奥....

19郎、粕谷新五郎、阿あ比び留る鋭えい三ざぶ郎ろうの4人を加えている。 また、『新選組始末記』には、この他20名説、25名説(田中伊織、新田革左衛門、葛山武八郎、松原忠治、安藤早太、河合耆三郎、酒井兵庫、奥沢栄助、佐伯又三郎、川島勝治らを加える)などがあるといわれる。 この一方で「浪士隊」を預る立場の会津藩の「藩庁記録」によると24名である。これによると殿内義雄、家里次郎、芹沢鴨、新見錦、近藤勇、根岸友山、山南敬助、佐伯又三郎、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、平山五郎、野口健司、平間重助、永倉新八、斉藤一、原田左之助、藤堂平助、遠藤丈庵、粕屋新五郎、上城順之助、鈴木長蔵、阿比類鋭三郎の23名が列記されていて、一人だけ名が落ちている。 上洛した浪士隊が江戸へ引き揚げる時、鵜殿は殿内義雄、家里次郎に命じて在京の意志を集めさせた。これが殿内・家里派である。これによると残留組は、芹沢派、近藤派、殿内・家里派の三派連合の集団だったのである。この派閥に主流派と反主流派が生れ、近藤、芹沢派が八木家同宿で直接会津藩の「お声が掛かり」というエリート意識もあり、反主流派への弾圧が始まった。 同年5月頃の近藤の手紙の中に「既に同士の中で失策を仕出かした者は天誅を加えた。同志殿内義雄という者は、4月中旬に四条の橋の上で討ち果した。又、家里次郎は大坂で切腹した、云々」というのがある。阿比類鋭三郎は4月6日に病死しているが、これも暗殺されたのではないかとの説もある。根岸友山は脱走、東下して新徴組に参加するが、脱退、長州藩との合体を模索する。元治元年(1864)権田直助らと討幕の挙兵を企てる。この為、近藤批判をしたりして、明治23年(1890)根岸友山新選組結成前