新選組おもしろばなし百話

新選組おもしろばなし百話 page 18/20

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18 しかし、この残留浪士を会津藩御預かりとする件は、浪士隊が京都を出発する3月13日の前夜まで秘密にされていた。清河八郎らに対する配慮からである。 晴れて会津藩御預かりとなった、芹沢、近藤ら13人は3月15日....

18 しかし、この残留浪士を会津藩御預かりとする件は、浪士隊が京都を出発する3月13日の前夜まで秘密にされていた。清河八郎らに対する配慮からである。 晴れて会津藩御預かりとなった、芹沢、近藤ら13人は3月15日、黒谷の金戒光明寺の大きい山門をくぐり、守護職本陣に出頭した。容保は二条城に出掛けて不在だったので、家老の田中土佐と横山主税が応接に出て、酒肴を出してもてなし祝った。一同は感激し「身命を投げうって、御奉公に仕つかまつりたい」と、口上を言上し退出したのであった。5浪士隊江戸引揚げの時、  京都に残った同志は誰で何人だったか  残留の嘆願書に連判したのは、永倉新八『同志連名記』によると、芹沢派の芹沢鴨、新見錦、平山五郎、平間重助、野口健司の5名。それに近藤派の近藤勇、土方歳三、沖田総司、藤堂平助、井上源三郎、山南敬助、原田左之助、永倉新八の8名、計13名で、この13名は当時、八木源之丞への止宿組である。この13名というのが「残留浪士」の人数の定説になっている。 これより“1 名多い”14名説がある。これは文久3年(1863)10月15日の近藤勇の口上願書に、「同志僅か14人」とあるのによっている。この14名という1名は誰か? 不明であるが、筆者は田中伊織と推定する。田中伊織と新見錦とは別人であり、芹沢派の中に、田中が入っていたと思われるのである。 次に17人説がある。これは3月10日に会津藩に提出した文書の写しの連名によるもので、斉藤一、佐伯又三