新選組おもしろばなし百話

新選組おもしろばなし百話 page 17/20

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17は、なかなかスンナリと行った訳では無かった。 “お坊ちゃん的”で何でも自分がオールマイティと思い込んでいた清河八郎は、江戸引揚げ反対、残留の表明をされた事に烈火の如く怒り、思わず、刀の柄つかに手を掛....

17は、なかなかスンナリと行った訳では無かった。 “お坊ちゃん的”で何でも自分がオールマイティと思い込んでいた清河八郎は、江戸引揚げ反対、残留の表明をされた事に烈火の如く怒り、思わず、刀の柄つかに手を掛けた。“スワ”とばかりに芹沢や近藤は身構える。この“トラブル”に間に割り入っている者もあり、乱闘にはならずに納まった。清河一派には「芹沢や近藤などは切腹させてしまえ」と毒づく者もあったが、結局は清河が憤然と畳を蹴って席を立ち出て行くという形で、芹沢や近藤の残留が決まった。この引揚げが、清河の運命を死へと導く事になるとは、彼は知らない。 この時、会津藩手て代じろ木ぎ勝かつ任とう(直右衛門)(1826 ~ 1904)の弟、浪士取締出役の佐々木唯三郎(只三郎)(1833 ~ 1868)から、近藤一派の気骨ある事を知り、容かた保もりは配下に留める事にしたらしい。一説には会津容保と近藤との間に密約が出来ていて、近藤がそこまで強気に出た様である。京都の治安維持の任務を持つ“トップ”として容保は、浪士隊がその尖せん兵ぺいとして欲しかったのだ。上洛の浪士隊を心待ちにしていた様である。 清河が未だ京に居る、文久3年(1863)3月10日に、近藤らは容保に対して「将軍家が江戸にお帰りになられるまで、御警固いたしたく退去の延引を、御許容賜りたい、もしこれをお聞き届け無き時は、我らもまたぞろ、浪々の身になって天朝並びに将軍家のご保護をし奉る所存」という趣旨の嘆願書を、芹沢、近藤以下13名の連判状として差し出した。 これを見ると、近藤らと京都守護職との接触は、浪士隊の江戸帰還命令の出された3月3日から10 日迄の間という事になる。しかしこの嘆願書が出されたのと同じ10日、老中板倉勝かつ静きよは松平容保に対して、「浪士隊の仲に尽忠報国の志のある者がありやと聞く、右の者どもを、その方の一手に引きまとめ差配するように」との達しが出されている。新選組結成前