新選組おもしろばなし百話

新選組おもしろばなし百話 page 16/20

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16られたのだろうか。近藤、土方、山南、沖田、永倉、原田の6名は6番隊に編入され、何故かもう一人の門人井上源三郎は離されて3番隊。試衛館の知名度はこんなに低かったのだ。百姓相手の剣道場と思われていた“フシ....

16られたのだろうか。近藤、土方、山南、沖田、永倉、原田の6名は6番隊に編入され、何故かもう一人の門人井上源三郎は離されて3番隊。試衛館の知名度はこんなに低かったのだ。百姓相手の剣道場と思われていた“フシ”がある。近藤の農民出身というのも考慮の中に入っていたのだろう。3番隊には沖田総司の義兄沖田林太郎が入っていた。2月4日に結集し、6日に編成、2月8日には「浪士隊」は京に向け中山道を歩きだしたのだった。こんな変な集団を江戸に置くのは、世間の目もあるので早く出発させたのだろう。 平尾道雄氏の『新選組史録』に描かれた、この時の浪人集団の“格好”は酷いものだったのだ。この時、伝通院の前に住んでいた鈴木半平という人の手紙にはこう書かれている。「惣髪、野郎坊主の者や、老人や若者が交り、黒木綿の無地羽織や野袴や、半天、股引きなど、とても武士とは思えぬ者や、鎖帷かた子びらを着込み、筋金入りの鉢巻きをしたりしている人もいる。太刀は何れも長刀を帯び、手槍、半弓、陣太刀などを持ち、一斗も入る様な“瓢箪”を背負っている者がいた。この中味は焼酎であろうか。その中に鹿革、紋羽織の者が20人程いたが、これは水戸の天狗勢であった。一同、勇ましい有様であった」と、大凡てんでバラバラ。現在で言うと“ルンペン”的な格好の人々のようだ。 こんな連中を京の人々は初めて見た。当初、「壬生浪」と揶揄した人々がいたという由縁である。4近藤勇たちは、なぜ京都に残ったのか  上洛した「浪士隊」の一部は、何故残ったのか考えてみよう。 残ったのは芹沢鴨をトップとする水戸派の浪士と、近藤勇を中心とした試衛館の一門であったが、この残留