新選組おもしろばなし百話

新選組おもしろばなし百話 page 14/20

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14が多い。近藤自身も上石原の農家の子であったし迷いがあった。一門をあげて浪士隊に入れば、この道場も廃場しなければならない。この頃、道場は、少し経営が行き詰っていた様である。北辰一刀流や神道無念流が有名....

14が多い。近藤自身も上石原の農家の子であったし迷いがあった。一門をあげて浪士隊に入れば、この道場も廃場しなければならない。この頃、道場は、少し経営が行き詰っていた様である。北辰一刀流や神道無念流が有名でここへ集中し、生徒は三流的理心流には集って来ない状況だった。 近藤はその頃、講こう武ぶ所じょの教授のテストを受けた。「講武所」とは幕府が旗本や御家人の調練の為に設けた学校で、黒船来航の翌々年の安政2年(1855)4月に開校した。講武所の武芸教授のトップは直心影流の男お谷だに精せい一いち郎ろう(信友)(1798 ~ 1864)が任命された。男谷はやがて講武所奉行にまで昇格している。その配下の教授には、身分の上下を問わず武芸の優れた者は採用するという方針が打ち出された。そこで、当時の在ざい野やの剣客たちは、こぞってこれに応募した。ところが「野に材を求める」という幕府の方針であったが、運営を始めると、やはり古い慣習が付いて廻り、門閥や系図がものをいう旧い学校になってしまっていた。近藤勇の力量は評価され採用が決定していたが、近藤は生家が百姓であるという事で採用取り消しとなった。講武所不採用の近藤の落胆は大きかった。 この時、一大チャンスとなったのが清河八郎の「浪士隊」であり、これで近藤勇には21 世紀でもこの名が残った。清河はこれが、近藤とは反対のこの大きな一頁を開き、命を閉じ、彼の名は殆んど消えてしまったのだ。 人間の運命は、本当に不思議なものである。3浪士隊の中での近藤勇一門は!  清河八郎のアイデア「浪士隊」は見事、幕府の認める所なり編成された。この中で近藤派はどうだったのだ