新選組おもしろばなし百話

新選組おもしろばなし百話 page 12/20

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12分の赤せき心しんは死んだのち、分かる事だと平然としていた。幕府も浪士のエネルギーを吸収する意味もあって、八郎の建白を取り上げた。募集するとたちまち230 余人が集まった。芹沢鴨や近藤勇たちが応募して来た....

12分の赤せき心しんは死んだのち、分かる事だと平然としていた。幕府も浪士のエネルギーを吸収する意味もあって、八郎の建白を取り上げた。募集するとたちまち230 余人が集まった。芹沢鴨や近藤勇たちが応募して来た、「浪士組の結成」である。松平主税助(忠敏)が取扱役、山岡鉄舟、松岡万らが取締役、八郎は無役だが、総裁を自認している。 文久3年2月23日京都着、八郎はここで仮面を脱いだ。朝廷の対諸藩の窓口であり時局の研究所というべき、「学習院」に出掛けて浪士を売りつけ、攘夷の勅ちょく錠じょうを乞うた。八郎は浪士組を朝廷の親衛隊にしようとの心積もりがあったのだ。幕府にとってはとんでもない「くわせ者」である。驚いて、たまたまその時「生麦事件」(文久2年8月21日)にひっかけ、関東で攘夷をしろと、八郎たちを呼び戻す事にした。これには八郎も拒否は出来ない。京都滞在わずか20日余りで江戸へ戻った。幕府も、今や朝廷に名の知れた八郎を断罪する事は困難であったので、暗殺する事にした。八郎が最も信頼していた、出羽国上之山藩の金子与三郎に誘い出させ、文久3年4月13日、上之山藩邸から帰る八郎を、麻あざ布ぶの一ツ橋で佐々木只三郎、逸見又四郎ら六人に待ち伏せさせ、これを斬らせた。八郎34才、上之山藩邸へ行く途中、高橋泥舟宅に立ち寄り、白扇に和歌一首を書き残した。「魁さきがけて 又さきがけん 死出の山 迷いはせまじ 皇すめらぎの道」と。 京都より戻った浪士組は、改めて庄内藩預かりの「新徴組」となり、当地(本所三笠町)の小笠原加賀守屋敷と飯田町の田沼玄蕃頭屋敷に分宿した。新徴組屯所跡は、東京都墨田区石原4の1、今は跡を示すものは何も残っていない。清河八郎の墓(伝通院)は、東京都文京区小石川3の14。地下鉄三田線「春日」下車、徒歩15分。 八郎の墓の隣に獄死した妾の「お蓮」の墓もある。