続・戦国おもしろばなし百話

続・戦国おもしろばなし百話 page 22/24

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22年(1576)、10月10日、仏徒として門徒(本願寺)を敵をするのは同じ仏門徒として耐え難いと言う意見もあり、織田信長に逆襲と評ひょう定じょうが一決した。この度の信長への離反は家臣一統の献策であった。翌年8....

22年(1576)、10月10日、仏徒として門徒(本願寺)を敵をするのは同じ仏門徒として耐え難いと言う意見もあり、織田信長に逆襲と評ひょう定じょうが一決した。この度の信長への離反は家臣一統の献策であった。翌年8月17日、石山本願寺攻めを離脱、信貴山城に籠る。計算高く、権謀術策に長たけた彼は、見通しが甘かった。信長は2万3千の兵で攻めた。滅亡が迫る中、久秀は日課としていた「灸きゅう」を悠々とすえさせて、信長の使者から天下の名器とされる「平ひら蜘ぐ蛛も」の茶釜を譲る様に勧められたが応じず、これを首に掛け「自爆」したと伝わっている。天正5年(1577)、これまた10月10日であった。 信長に意地を見せて、彼の生涯にふさわしい壮絶な最期であった。6戦国武将にちょっと例のない道雪のふるまい          ―義に殉じた九州男児の野望 駕か篭ごに乗って前進あるのみの采配を振るい続けた男、雷の化け身しんとされた男、もしもその時代に写真があれば立たち花ばな道どう雪せつは、どんな顔をしていたであろうか?落ち目の大友氏を見捨てることなく、島津氏の前に立ちはだかり、そして71年の生涯の殆ほとんどを野戦場で過ごした彼は、下半身不能の病者となり、歩行不能の彼は駕篭に乗り、戦闘の指揮をした。三十七度の合戦で一度も遅れをとらなかった。これに対して、もう一人肥ひ前ぜんの熊と恐れられた龍りゅう造ぞう寺じ隆たか信のぶがいて、彼も歩行不能の将で六人担ぎの山駕篭に乗り合戦に出場した。島津・有馬両軍と戦った「島原沖おき田た畷なわての合戦」で不覚にも首級を敵に進ずる羽目となった。隆信は余りの肥満体であったために、馬に乗れず山駕篭の世話になった。