続・戦国おもしろばなし百話

続・戦国おもしろばなし百話 page 21/24

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21 次に、言う事を聞かぬ将軍義輝に目を付け、息子松永久ひさ通みちをして、三好三人衆等と共に、永禄8年(1565)5月19日に「二条の館」に攻め込み、兵力1万2千人で義輝を討ち取った。 将軍を攻め殺す事が平気で....

21 次に、言う事を聞かぬ将軍義輝に目を付け、息子松永久ひさ通みちをして、三好三人衆等と共に、永禄8年(1565)5月19日に「二条の館」に攻め込み、兵力1万2千人で義輝を討ち取った。 将軍を攻め殺す事が平気で行われるほど、室町幕府の権威は低下していた証拠であった。ところが擁立した十四代将軍義よし栄ひでを巡って、久秀と三好三人衆は次第に対立し、翌年の「和いず泉みの国くにの戦い」で、久秀は大敗を喫し堺に逃れたが、これで引き下がる男では無かった。態勢を立て直して永禄10年(1567)三人衆が陣取る東大寺に夜襲をかけて三人衆の軍勢を追い散らすが、この混乱の中で、東大寺は炎上し大仏殿は焼けてしまった。10月10日である。奈良の大仏は広く庶民の信仰を集めていただけに、久秀の悪名は天下に鳴り響く事になった。 確固たる政治権力が不在の中、京では常に小競り合いが行われていた。天下布武の信長が永禄11年(1568)9月に上洛した途端に天下の形勢が全く変わった。信長の実力を知る久秀は、早々に屈服し家臣となった。信長は彼を「京に詳しい男」として利用しようと考えていたが、久秀は、したたかだった。彼は武田信玄を通じて信長に背そむいたが、進軍途上で信玄は死に、久秀の目も論くろみは見事に外れてしまった。再度信長に降伏したが殺されずに助かった。 彼は信し貴ぎ山さんに城を構え、奈良北部に多た聞もん山やま城を築き一時居城とした。当時この城は極めて大きな城であった。宣教師アルメイダは「この城は日本の中で最も美しいものだ。又、世界でも類を見ない程のものだ」と記している。信長は、安土城の参考にしたとも言われる。近世城郭に見られる「多た聞もん櫓やぐら」は、ここに由来している。城内には障壁画を持つ美しい書院も設けた。信貴山城の改築では、五層六角の見事な天守閣も築いた。久秀は近世城郭建築の先駆者として名高い、異色の一面を持つ風流武将であったのだ。 その後、越後の上杉謙信が動き、天下の形勢が信長に不利になってくると、「石山本願寺の攻め」に加わっていた久秀は、大和信貴山に戻って、元亀2年(1571)に続き再び反信長の「狼の ろ煙し」を上げた。天てん正しょう4戦国武将