続・戦国おもしろばなし百話

続・戦国おもしろばなし百話 page 20/24

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20を作って、他の陣営に売りに歩かせたりした。 彼は生まれの育ちも不明である。一説には、京の山城の西岡(西京区)出身とか、阿波とか直江とかあるが不明である。天文10年(1541)頃までには、京都で活躍する三好....

20を作って、他の陣営に売りに歩かせたりした。 彼は生まれの育ちも不明である。一説には、京の山城の西岡(西京区)出身とか、阿波とか直江とかあるが不明である。天文10年(1541)頃までには、京都で活躍する三好長なが慶よし(1522 ~ 1564)の右ゆう筆ひつ(書記)となり、懐ふところ刀かたなとなって台頭していく。北条早雲と同じ様に遅咲きで、歴史の舞台に登場するのは天文年間の終りで、40才になってからの事である。初めは摂せっ津つ滝山城主(神戸市中央区)だったが、その後、大和信し貴ぎ山さん城(奈良県生い駒こま郡平へ群ぐり町ちょう)に移った。その後、永禄3年(1560)8月、三好長慶の命に寄って大和をほぼ平定する軍功を上げ、長慶の彼への評価は大きくなった。 この頃から、軍略家としての才能を発揮し出した。そして主君に取って代わろうとする野心を抱き始めた。宣教師のルイス・フロイスは『日本史』の中で松永久秀について「三好殿の下に、もう一人の執しっ政せいがあって名を弾正殿と言った。この人は大和の国の殿で、年長で勢力あり富裕で人々から恐れられていて、大層恐ろしい暴君だった」と書いている。 最初は将軍義輝も主君の長慶も、久秀を重要の男と思っていたが見事に足を掬すくわれたのだ。奸かん智ちにかけては天才的な男だった。京にあって「税」を思いのままにかけて私腹を肥やしたという。その金で朝廷や有力公家に金品を贈り、主君を招いて「猿楽」を催したりして歓心を買うのが得意だった。その一方で、「讒ざん言げん」や根拠のない「噂話、謀略話」で、主君長慶とその兄弟の信頼関係を突き崩して亡き者にし、長慶嫡男義よし興おき(1542~ 1563)を毒殺、長慶嗣子・義よし継つぐ(長慶の養子)(1549 ~ 1573)を京から追い出し、長慶の美人妻(左京大夫局)を我がものとするなど「悪あく辣らつ、非道」振りを発揮している。精神的に完全に落ち込んだ長慶を、久秀は思い通りに操り、京の都を一時期勢力範囲に収めた。(この毒殺説は、後世に造られた軍記物を典拠とする風聞とされる。)