続・戦国おもしろばなし百話

続・戦国おもしろばなし百話 page 18/24

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18~ 1506)が画業の本拠をここにおいて精進したことであろう。大内氏は財政的にも雪舟を支援した。 又、大内氏一族は、京文化の導入で様々な遺産を残した。その一つに「大内版」と呼ばれる、山口で出版された刊本....

18~ 1506)が画業の本拠をここにおいて精進したことであろう。大内氏は財政的にも雪舟を支援した。 又、大内氏一族は、京文化の導入で様々な遺産を残した。その一つに「大内版」と呼ばれる、山口で出版された刊本がある。『蔵ぞう乗じょう法ほっ数すう』や『聚しゅう分ぶん韻いん略りゃく』などである。また、「大内塗り」は京漆器の伝統を踏まえて盛んになり、「大内人形」は、京から人形師を呼び寄せて作らせたという。 絶頂期には西国七ヶ国を領有する最大の戦国大名となる一方、戦国期には珍しく、少ない文化愛好者だった。『大内義隆記』に拠ると「公家の交わりばかりにて、朝夕の遊宴には歌の披講に管弦し」という状態だった。天文12年(1543) 出い雲ずもの尼あま子ご氏しを攻めたが敗北した。これをきっかけに、更に彼は文化芸能に、はまって行った。 『大内義隆記』には「位階高く上がりつつ、冠を着し、装束色々なりし」「弓馬の道にうとくしておろそかに、有事どもを家来の老中若輩に至るまで欺きつつ、無益の公家の出立や当家の武士にはすたりなん、とつぶやく事限り無し」とある。大内氏の瓦が解かいの前兆が出始めていた。 大内氏家臣の陶すえ氏、内藤氏、杉氏などが、国主的に変化し、大内氏の統制下から離れ始めていた。武断流の陶すえ晴はる賢かた(1521 ~ 1555)は、国盗りに動き出した。重臣が彼に忠告したが義隆は動かず歳月は過ぎ、ついに、天文20年(1551)8月、陶をはじめ杉、内藤の軍が蜂起し彼は山口を追われた。陶氏、反乱の知らせを聞きながら、彼は、幸若舞を観賞していたという話が残っている。 長門深川の大だい寧ねい寺じに逃れたが、9月1日、ここで彼は自刃して果てた。そして京文化への傾倒を毛嫌いしていた陶氏らの反乱兵により、前関白の二条尹ただ房ふさ(1496 ~ 1551)ら当時山口在住の公家等は、8月29 日、ことごとく殺されてしまった。 文化という魔物に取りつかれ、戦国大名と別の道を歩んだ悲劇を、大内義隆が演出した一生であった。