続・戦国おもしろばなし百話

続・戦国おもしろばなし百話 page 17/24

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17残り伝えられていたのを逆輸入したのであった。 武将としての弘世は、周す防おうを平定し、長なが門とも攻め落とした上で、貞じょう治じ3年(1364)初めて上洛した。『太平記』には「在京の間数万貫の銭貨・新渡....

17残り伝えられていたのを逆輸入したのであった。 武将としての弘世は、周す防おうを平定し、長なが門とも攻め落とした上で、貞じょう治じ3年(1364)初めて上洛した。『太平記』には「在京の間数万貫の銭貨・新渡の唐物等、美を尽して、奉行・頭とう人にん・評定衆・傾けい城せい・田楽・猿楽・遁世者まで是を引与へける間、此人に勝る御用人有まじと、未見へたる事もなき先に、誉ぬ人こそ無りけれ。世上の毀き誉よ非善悪、人間の用捨は在貧福とは、今の時をや申すべき。」大内氏の財力を都人に見せつけたのであった。その一方で弘世は都のたたずまいと、その文化の素晴らしさに魅せられた。周防に戻って、弘世は京の様な都を作ろうと、本拠を大内村から山口に移した。 『大内史実録』には「始めて吉よ敷しき郡山口に遷す。此の地の繁華は此の世に起こる。山口に祇園、清水、愛宕寺を建立し、統べて帝都の模様を遷す」と記される。各町ごとに京童6人ずつを招き、地方言葉を正そうとしたとの伝説が残る。 「応仁の乱」に活躍し、西軍の雄と言われた大内政弘(1446 ~ 1495)は、この弘世から三代後である。和歌や連歌が好きで、連歌師の宗そう祇ぎ(1421 ~ 1502)を山口に招いている。息子の義よし興おき(1477~ 1529)は、約10年も京都に在京しその武力による治安維持に尽くした。 更に、その息子の三十一代大おお内うち義よし隆たか(1507 ~ 1551)の代には、「京文化への傾倒」はピークに。その間、義隆は後奈良天皇の即位の費用を全て献上、御所の修理も行った。これより天文17年(1548)、「従二位」「兵部卿」となり、将軍より官職が上の時期もあった。この財力は、貿易の利の賜物であった。 そして京都から公家、歌人、儒者、禅僧らが続々と山口に移って、更に華やいだものとなった。この時代の山口は「西の京」として繁栄の極みを迎えた。そして、大内氏と連歌師の関係も深く、義隆の師は飛鳥井雅俊、三さん条じょう西にし実さね隆たからだった。幸若流の舞なども幸こう若わか太た夫ゆうを招いて保護を加えているし、注目すべきは、雪せっ舟しゅう(1420戦国武将