続・戦国おもしろばなし百話

続・戦国おもしろばなし百話 page 15/24

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15に三老と称される桑名丹後守(?~ 1593)に与え、その子・将監(親ちか勝かつ)を、阿波との国境にある甲こうの浦うら城(高知県安芸郡東洋町大字甲浦)の城主とした。 桑名父子の預かった奈半利と甲浦の二つの....

15に三老と称される桑名丹後守(?~ 1593)に与え、その子・将監(親ちか勝かつ)を、阿波との国境にある甲こうの浦うら城(高知県安芸郡東洋町大字甲浦)の城主とした。 桑名父子の預かった奈半利と甲浦の二つの城は、やがて阿あ波わへ攻め入るための布石として、長曽我部氏最大の功臣を防衛上の第一線に据えたものと思われる。丹後守の預かった奈半利城は安芸郡奈半利町の小学校校庭だと云われているが、昔を偲ぶものは何一つ残ってはいない。 ところで丹後守の長男太郎左衛門(?~ 1586)は、豊臣秀吉の島津攻めに参戦、天正14年2月、「豊ぶん後ごの国くに戸へ次つぎ川がわ合戦」で戦死、二男の平右衛門はそれより先、元親の“阿波攻め”の時、一宮城(徳島市一宮町)攻略戦で戦死している。三男で甲浦城主となった将監は、これまた朝鮮出兵で異国の土となり再び戻っては来なかった。また豊後に散った、太郎左衛門の次男である五い百お蔵ろい左さ馬まの進しん(?~ 1615)は「大坂の役」に“長曽我部盛もり親ちか”に従い、5月6日「八や尾おの戦い」で盛親の馬前で討死する。 別説では、左馬進は、「関ヶ原の戦い」に参加したが、長宗我部軍が戦わずして撤退したため、盛親が大坂に落ち延びるのに従った。長宗我部家の改かい易えき後は、浅野家の家臣・浅野良よし重しげを頼って紀伊の田辺に隠棲していたが、大坂の陣が始まると妻子を捨てて大坂に駆けつけるという。 まさに忠臣の最期ほどあわれなものはない。4京の文化にのめり込み滅んだ大内義隆 小京都と呼ばれる町は全国各地にあるが、山口市は最も京都らしい一つである。守護大名から戦国大名になっ戦国武将