続・戦国おもしろばなし百話

続・戦国おもしろばなし百話 page 14/24

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14宮(祇園社、現石勲神社)の社前に布陣した。20日に合戦が行われた。上杉軍は長尾600 余騎を追い崩したが、備えを立ち直せない内に横合いから高梨700 余騎が打ちかかり、顕定は長刀をとって高梨に向かった。政頼も....

14宮(祇園社、現石勲神社)の社前に布陣した。20日に合戦が行われた。上杉軍は長尾600 余騎を追い崩したが、備えを立ち直せない内に横合いから高梨700 余騎が打ちかかり、顕定は長刀をとって高梨に向かった。政頼も馬から降りて、組討ちし顕定の首級をあげた。顕定57才の生涯であった。長尾、高梨連合軍は勝利し、憲房は関東へ逃げ帰った。この戦いを「長森原の戦い」と云う。そして政盛は大宝宮の神前で凱旋をあげた。そして社人にこの神は何と云う神かとたずねた。社人は「牛ご頭ず天てん王のう(祇園社)をお祭りしています」。そして神輿を陣中に入れ祝詞を奏し、陣中に酒を出し、杉原壱岐守が舞を舞ったと云う。そして政盛は帰国すると、京都の祇園社より牛頭天王を勧請し、この戦勝記念日の6月20日に天王祭り(祇園祭)を行う様になったという。この天王祭りも現在も行われていて、平成6年(1994)7月の京都平安建都1200 年祭、全国祇園祭に参加した。3高知奈半利城主の話・桑名丹後守とその一族 「一将功成りて万骨枯る」という、一家の柱石となって働きながら、報われぬまま埋れていった将士のいかに多いことか。長曽我部氏の家老を勤め奈な半は利り城(高知県安芸郡奈半利町乙)主となった桑名丹後守とその一族も、主家のためにすさまじいまでの働きをしながら、次々と戦場の露と消えていった。 永えい禄ろく12年(1569)8月、長ちょう曽そ我か部べ元もと親ちか(1539 ~ 1599)は、土佐東部を支配した安あ芸き国くに虎とら(1530~ 1569)を攻めて安芸城(高知県安芸市土居)を落とすと、今迄安芸氏に臣下の礼をとっていた諸豪たちは、元親に降伏した。この時、元親に降った「奈半利城主・姫倉右衛門尉」を廃し、新たに、久武氏、中内氏と共