続・戦国おもしろばなし百話

続・戦国おもしろばなし百話 page 13/24

電子ブックを開く

このページは 続・戦国おもしろばなし百話 の電子ブックに掲載されている13ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「電子ブックを開く」をクリックすると今すぐ対象ページへ移動します。

概要:
13 2越後戦国時代の幕開けの戦い“武将と神社” 信濃国高井郡(長野県中野市)の国人領主、高梨摂津守政盛(1456 ~ 1513)は、越後守護代、長尾為ため景かげ(上杉謙信の実父)(1489 ~ 1543)の外祖父(為景の....

13 2越後戦国時代の幕開けの戦い“武将と神社” 信濃国高井郡(長野県中野市)の国人領主、高梨摂津守政盛(1456 ~ 1513)は、越後守護代、長尾為ため景かげ(上杉謙信の実父)(1489 ~ 1543)の外祖父(為景の母の父)である。この政盛が活躍した「長森ヶ原の戦い」とそれにまつわる“若宮八幡宮”と祇園社についての伝承を考える。 永えい正しょう4年(1507)8月、為景は政盛の支援を得て上杉定さだ実ざね(1478? ~ 1550)を擁立し、越後守護上杉房ふさ能よし(1474 ~ 1507)を“天水城”に攻め、房能を自害に追い込んだ。『関東管領記』。これが「越後戦国時代」の幕開けである。しかし房能の実兄の関東菅領、上杉顕あき定さだ(1454 ~ 1510)はその無念を晴らさんと、同6年(1509)6月、顕定の養子・上杉憲のり房ふさ(1467 ~ 1525)を将として為景討伐軍を越後に送ったが、白鳥口から越後に入ってきた政盛・市河甲斐守・小笠原大膳大夫長棟・泉信濃守ら信州軍により越後妻つま有あり庄しょう(新潟県中魚沼郡津南町)で撃滅されてしまった。怒った顕定は7月27日、自ら関東の大軍、八千余騎を率いて越後に侵入し、各地で長尾軍を撃破した。為景は越中に逃亡、さらに信越国境の高井郡志久見口に、高梨政盛、小笠原氏ら信州軍を撃退した。信州軍は敗れ、居館や山城に立て籠った。翌7年(1510)4月、長尾・高梨軍の反撃が始まる。政盛は出撃にあたり、高梨氏の氏神“若宮八幡宮”(長野県中野市大字若宮)に参詣した。高梨政盛が拝殿で拝んでいると「首の無い雀」が上から落ちてきた。これを見た諸士は、色を失い不吉な前触れと動揺する。政盛は「この度の出陣では必ず勝つ。なぜならこの雀は首が沢山取れるとのお告げである。この“雀”を肴さかなに酒を飲もう」と祝宴を開き、諸士に酒をふるまった。これで諸士の士気が上った。「高梨系図」にある。そして戦闘へ、その後、次第に劣勢となった顕定・憲房父子は関東へ戻ろうとした。長尾・高梨の連合軍は、これを長森原(新潟県南魚沼市六日町)に追撃し、6月19日大宝戦国武将