続・戦国おもしろばなし百話

続・戦国おもしろばなし百話 page 12/24

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12義よし視み(1439 ~ 1491)に仕え、義視が伊勢国司北畠家(津市美杉町、多気御所)を頼って伊勢に下向時には付き従う。義視が帰京した後も早雲は残留した。応仁3年(1469)伊勢、伊賀の荒木兵庫、多目権兵衛、山....

12義よし視み(1439 ~ 1491)に仕え、義視が伊勢国司北畠家(津市美杉町、多気御所)を頼って伊勢に下向時には付き従う。義視が帰京した後も早雲は残留した。応仁3年(1469)伊勢、伊賀の荒木兵庫、多目権兵衛、山中才四郎(関一族)、荒川又次郎、大道寺太郎、在竹平衛の悪ガキ仲間六人と共に、伊勢神宮に神しん文もんを捧げ駿する河がに向かった。駿河の国守・今川義忠(1436 ~ 1476)に嫁いでいた姉(北川殿)(?~ 1529)から声を掛けられたらしいが、駿河に入ると義忠が殺されたので、6才の龍りゅう王おう丸まる(今川氏うじ親ちか)(1471 /1473 ?~ 1526)を国守に押し上げ、その功績で駿すん東とう郡の興福寺城(静岡県沼津市)の城主になった。明めい応おう4年(1493)9月には、策略を用いて大森藤ふじ頼よりの小田原城を攻め取った。時に63才。しかし領民を愛して善政を行い、子孫も甲州武田、駿河今川両家と親交。豊臣に倒されるまで、北条五代は栄えた。 早雲の伊勢浪人説については、歴史家・故田中義よし成なり(東京帝国大学)博士は、越前勝山藩主小笠原家の『小笠原文庫』の中に早雲が永正3年(1506)南信濃の豪族関春光を通じ、小笠原に宛てた書状を発見。早雲自身が「伊勢に在国し、関右馬充と我等一身体(同族)」と記し、伊勢平氏と名乗っている事が分かった。これを基に伊勢の史書『勢陽五鈴遺響』『伊勢史略』などは、「安あ濃のう郡ぐん河こ内うち村に産す。平氏の北条時政の子孫、伊勢氏」と、記述している。 その出生地河内は、現在の三重県津市芸げい濃のう町ちょう河内。安濃川源流の鈴鹿山中(落合の里)で平たいらの維これ盛もり隠棲地伝説のある成じょう覚かく寺じがあり錫しゃく杖じょう山ざんと言う。山一つ越した亀山市関町は、平資すけ盛もりの子孫、地頭関盛国の発祥地。平家の血を引く旧家で落合氏も多い。一方、『鈴鹿関町史』も詳細に早雲の出生地を解説している。又、亀山市内には関氏の子孫が多く、早雲の子孫ゆかり称する、老舗「八兵衛うどん」や、関氏の一族、鹿か伏ぶ兎と城じょう(三重県亀山市加太市場)主の子孫・故加太こうじ氏(歴史家)は東京で活躍された。伊勢平氏会、関氏一族の人々は、津市、亀山市内の社寺を中心に“北条早雲”とその先祖伊勢平氏の史料探しに尽力されている。