戦国おもしろばなし百話

戦国おもしろばなし百話 page 21/22

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91三 秀吉の話林に駐在していた。それは半数以上が食糧の輸送部隊であったので時間を要したと思われる。 秀吉軍の岡崎城攻撃を知った小牧山の家康は、織田信雄と1万5千人の軍勢で秀吉軍を急追する。途中、小幡城(....

91三 秀吉の話林に駐在していた。それは半数以上が食糧の輸送部隊であったので時間を要したと思われる。 秀吉軍の岡崎城攻撃を知った小牧山の家康は、織田信雄と1万5千人の軍勢で秀吉軍を急追する。途中、小幡城(名古屋市守山区西城)に入城し、4月9日早朝に長久手町岩作、色金山の山上へ到着した。その時、家康軍の到着を知った秀吉軍は、長なが湫くての山の田に池田恒興軍、横おう道どうに池田元助軍、喜き婦ふ嶽だけに森長可軍が一帯に布陣。家康軍も色金山より本陣を長湫の御旗山に移して前進し、先陣の大将に井伊直政、奥平信昌、そして家康自身が前山に進出して布陣した。「仏ほとけヶが根ねの決戦」である。又、その頃迄に「岩崎城の戦い」、「白山林の戦い」、「檜ひのきヶが根ねの戦い」も全部終了して、4月9日午前10時頃より「仏ヶ根の決戦」と移行し決戦となった。 家康、信雄軍9千人に対し池田恒興・元助父子、森長可軍9千500 人という。両軍の合戦は仏ヶ根山の山野で池田元助軍の鉄砲討ちかけにより開戦したと言われている。池田対井伊の合戦は当初、一進一退の五分で進められたが池田恒興軍の加勢により、井伊軍が仏ヶ根より後退。その頃、森長可軍は家康本陣を攻撃していたが、不幸にも森長可が鉄砲で討死。森軍は総崩れとなり、池田軍も敗戦。乱戦の中、池田恒興は、徳川軍の永井直勝の槍に討たれた。長男元助(1559 ?~ 1584)も討死。二男輝政(1565 ~ 1613)は只一人小牧に帰った。秀吉の敗戦だった!秀吉の禁教令―しかし商売は別であった 豊臣秀吉は、はじめキリスト教に極めて好意的であった。天正14年3月大坂城で“宣教師フロイス”らと会った時など、「九州を征服した後には長崎港をイエズス会に寄進する」とまで云ったといわれている。とこ