戦国おもしろばなし百話

戦国おもしろばなし百話 page 20/22

電子ブックを開く

このページは 戦国おもしろばなし百話 の電子ブックに掲載されている20ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「電子ブックを開く」をクリックすると今すぐ対象ページへ移動します。

概要:
90田信雄と共に3万5千人の軍勢で小牧山上に在陣していた。 3月17日、秀吉方の森長なが可よし(1558 ~1584)らが3千人の軍勢で羽黒八幡林に出撃して来たので、徳川方の酒井忠ただ次つぐらが5千人の兵を率いて合戦と....

90田信雄と共に3万5千人の軍勢で小牧山上に在陣していた。 3月17日、秀吉方の森長なが可よし(1558 ~1584)らが3千人の軍勢で羽黒八幡林に出撃して来たので、徳川方の酒井忠ただ次つぐらが5千人の兵を率いて合戦となり、森勢の重臣・野呂助左衛門宗長父子が討死して、その上、森長可は敗走した。小牧の対戦はこの一戦だけで、以降は対陣ばかりが続いた。一番に困難したのは食糧の補給であった。秀吉方は近江美濃より運搬したが、家康方は三河、尾張より搬送したという。 一日も早い決戦を望んでの「中入」作戦である、岡崎城攻撃作戦を進言したのが池田勝入(恒興)であった。これに対して再三の進言に許可しなかった秀吉も、ついに許可を下した。 天正12年4月6日夜、春日井郡篠木、柏井(春日井市)の地に集結した、三好信吉(のちの豊臣秀次)、池田勝入(恒つね興おき)、森長可、堀秀政(久太郎)等の2万余人の軍勢が岡崎城攻撃に出発した。途中、玉野川を大日の渡し、松河戸の渡しで渡河して、4月9日早朝に第一軍池田軍は、日進市の岩崎城に到着していた。それに続いて森軍、堀軍は長なが湫しのの景行天皇社附近に到着していたが、秀次軍は遠く離れて、現在の尾張旭市の白山池田恒興