戦国おもしろばなし百話

戦国おもしろばなし百話 page 18/22

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88矢や文ぶみで和解交渉をしていた―高松城の闘い 天正10年(1582)5月、秀吉の「高松城水攻め」は有名である。先年、この「水攻め」に関する新しい資料が岡山市高松稲荷、秋山敬貴さん方の蔵から発見された。 藤....

88矢や文ぶみで和解交渉をしていた―高松城の闘い 天正10年(1582)5月、秀吉の「高松城水攻め」は有名である。先年、この「水攻め」に関する新しい資料が岡山市高松稲荷、秋山敬貴さん方の蔵から発見された。 藤井駿すすむ元岡山大名誉教授の解説によると、「土木工事により「水攻め体制」が確立し城内に水が入り込む様になった時、羽柴秀吉方へ和解の手紙を出す手段として“矢文”が使用されていた。毛利方の武将(吉川元春家臣)宍戸豊前(備前とも)が、積しゃく善ぜん寺じを焼き払い陣屋にした。“本能寺の変”で明智光秀が信長を討ったのを聞き、秀吉が京都へ急ぎ戻る時、宇喜多直家の実子八郎(後の秀家)(1572 ~ 1655)を人質として播磨境迄連行した」などである。 従来説と違う点は、光秀が毛利方にさし向けた使者は、通説では庭瀬街道を通り鼓たいこ山やまにあった秀吉の陣地で捕まったとあるが、この古文書では、それより北の大窪越を通って「石井山の秀吉の本陣」で捕まったとあるし、その他に、備中高松城主・清水宗治(1537 ~ 1582)の自刃には堀尾茂助(吉晴)(1544~ 1611)が検使に来たとあるが、秀吉の重臣の一人で後に木下姓を受け継いだ杉原七郎左衛門家次(1530 ~ 1584)が来たと書かれている。この状況を見ると、高松城の水攻めの効果が出て先方は和解交渉を始めていたのだとみえる。その結果「中国大返し」を始めるのに交渉は早く成立、秀吉軍は西に向かって走り出せたのだろう。