戦国おもしろばなし百話

戦国おもしろばなし百話 page 17/22

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87三 秀吉の話が、信長の軍勢では無い、野武士の集団だった。小六は濃尾の土豪達に檄げきを飛ばし、多くの軍勢を集めた。「見ろ、俺を殺してもよいが、やがて城内の者は皆殺しになるぞ」と、秀吉は叫んだ。次郎左衛....

87三 秀吉の話が、信長の軍勢では無い、野武士の集団だった。小六は濃尾の土豪達に檄げきを飛ばし、多くの軍勢を集めた。「見ろ、俺を殺してもよいが、やがて城内の者は皆殺しになるぞ」と、秀吉は叫んだ。次郎左衛門基もと泰やすは念の為、包囲勢に対し鉄砲を数発撃ち込み「近寄れば秀吉を殺す」と言ったが、応答は無かった。只、ひたひたと押し寄せてくる。基泰に逡しゅん巡じゅんの色が見えた。秀吉はすかさず言った「俺と共に信長公の下に来られよ、悪い様にはせぬ」。基泰はようやく帰き服ふくの肚はらを決め、秀吉の縛ばくを解いた。こうして誘降作戦は成功した。 その功が、確かな資料に秀吉の名が見える最初である。また案内役だった坪内利定(1539 ~ 1610)に宛てた秀吉の「知行宛あて行がい状じょう」も残っている。永禄8年(1565)11月付の物で、木下藤吉郎秀吉の署名がある。これも彼の「発給文書」のうち、初見の物である。記録に残る秀吉初の大仕事であった。 それから、蜂須賀一党の活躍がはじまる。永禄11年(1568)9月12 日、信長は近江の六角義賢(承禎)を攻めたが、秀吉は、佐久間信盛、丹羽長秀等と、堅城・箕み作つくり城じょう(滋賀県東近江市五個荘)に迫った隊の先鋒となった。小六は“シャニムニ”押し進んだので、城方はたまらず降伏の意味の笠を掲げ、その攻めぶりに驚いて「寄せ手は誰ぞ」と、訊ねかけた。「信盛の手には佐久間久六(盛重)、原田与介(信盛の与力)。秀吉の手に蜂須賀彦右衛尉(小六)、竹中半兵衛云々」と返答があった。織田家の戦録の内、これが、小六の名の初見である。 元亀元年(1570)4月、越前の「朝倉氏攻め」の際、浅井氏の反抗で信長は命からがら退却したが、殿軍を受け持ったのが秀吉らである。殿軍のまた“シンガリ”を勤めたのが小六一党で、追いすがる朝倉勢相手に、稲田大炊助、青山新七等と何度も取って返して“戦い防ぎ”無事、殿軍を果したという。 その後、同年6月「姉川の合戦」、翌年5月「伊勢長島一揆」等々に小六は参戦した。そろそろ高齢だったが、勇猛さを持ち、驚くべき働きで秀吉を助け、秀吉の帷い幄あく(本営)に参画し、より尽力した人物だった。