戦国おもしろばなし百話

戦国おもしろばなし百話 page 15/22

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85三 秀吉の話えあるべし」。この意味は“お前さんにも昔、透破仲間の博打でスッテンテンになっても打ち興じていたのではないか”……と言う事だ。すると秀吉はニッコリと笑い「さては、各々にもバクチらの望みにて....

85三 秀吉の話えあるべし」。この意味は“お前さんにも昔、透破仲間の博打でスッテンテンになっても打ち興じていたのではないか”……と言う事だ。すると秀吉はニッコリと笑い「さては、各々にもバクチらの望みにて候や」と述懐したという。 「思えば真裸になって追い出されたり、人の物を無断で使って打ちょう揶ちゃくされたりしたものだ。欠落も算えた3年間に18ぺんもある。また、美濃、近江、伊勢、尾張の透破仲間の“大寄り合い”では、5貫、10貫と取ったり取られたりしたものだった。ある時、桑名の不思議甚六、尾張の神主武太夫の二人が、大負けに負け腹立ちの余り、残った百文足らずの“はした銭”を“餅でも買って食え”とばかり俺に投げつけ帰った。俺は餅など食わず、その“はした銭”を使い、人の座を借り、袖の下からチョクリ、袂たもとの蔭からコッソリと張り、半夜で8貫目に仕上げ、更に35貫にも増やした事がある。いかにもバクチは銭の多少ではない“心と目利きの勝負”である“ここは一番”勝負を打ってみようわい」……。これは『爛らん柯か堂どう棋き話わ』に伝えられる話である。この話は、素姓不詳の小六と秀吉の隠れた部分を“生き々”と伝えてくれている。この中でさり気なく“透破”ないし“突破”という言葉は暗示的である。小六は“透破”の一党だったのである。 そもそも、蜂須賀家の発祥地はどこか。尾張西辺りの海東郡の東北部に蜂須賀という地名がある。昔、高須賀という池があり黄蜂が群生して人を悩ましたが、「弘法大師」が蜂共を捕えて塚に埋めた。その蜂塚が訛って蜂須賀と称する様になったと、近所の名刹・池鈴山蓮華寺(愛知県あま市蜂須賀)の縁起に見られる。「大師」ゆかりの地らしく、「唐」へ渡っていた「大師」が鈴を投げたら、はるばる海を越えてこの池に落ちたという伝説も残っている。蜂須賀郷は那な古こ屋やへ3里半、室町幕府管領斯し波ば氏の家臣・織田大和守(達みち勝かつ)の清須や、伊勢への要よう津しんである津島に近い物産の集散地。蜂須賀家はここを本拠とする美濃系統の土豪だったのだろうと思われる。