戦国おもしろばなし百話

戦国おもしろばなし百話 page 13/22

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83三 秀吉の話矢や作はぎ橋ばしで、秀吉と小六の出会いは“嘘”だった!そして二人は透すっ破ぱ仲間だった! 夏イベントの代表格に、四国徳島「阿波踊り」がある。小六の蜂須賀家は、阿波藩主として明治期まで続き....

83三 秀吉の話矢や作はぎ橋ばしで、秀吉と小六の出会いは“嘘”だった!そして二人は透すっ破ぱ仲間だった! 夏イベントの代表格に、四国徳島「阿波踊り」がある。小六の蜂須賀家は、阿波藩主として明治期まで続き、幕末も乗り切り最後の藩主蜂須賀茂もち韶あき(1846 ~ 1918)は侯爵となられた。 筆者も幼年期に絵本で見た“小六と秀吉の矢作橋の出会い”のシーンが強く印象に残っている。 こんな話がある。明治時代宮中の宴会に招かれた人々は、その時、菊の紋章入りの食器(銀の小食器)を記念の為秘かに持ち帰る事が黙許されていた。蜂須賀茂韶侯爵も慣例に寄りそっと小食器を懐中にしたところ、明治帝が目を止められて「蜂須賀。やはり血筋は争えぬな」と、からかわれたというのである。 同じ様な話が土佐山内家に伝わっている。幕末期、山やまの内うち容よう堂どうは、蜂須賀家世子の訪問を受け酒宴を共にした。世子は座にあった銀の瓶へい子し(酒などを入れる、細長く口の狭い焼き物)が気に入り、下か賜しを乞うたが容堂は許さない。そこで機を見てそれを持ち去ろうとした時、容堂は笑った「汝乃祖の遺風を倣ならうや」と、言ったといわれる。これらの話は、上下を問わず広く“小六盗賊説”が知れ渡っている事がよく分かる話である。 蜂須賀家では“盗賊小六”を創作であるとPRして努力された。蜂須賀侯爵家の依頼によって著述されたという、昭和初期刊行の渡辺世よ祐すけ(1874 ~ 1957)博士の『蜂須賀小六正勝』(雄山閣 1929)という伝記等がそれで、矢作橋は当時存在せず、当時“渡し”で通っていたのが本当で、“橋”は慶長年間の初めに架橋され75間の土橋だった。 秀吉(1537 ~ 1598)と小六(正勝)(1526 ~ 1586)が“透すっ破ぱ仲間”だった事は、ほとんど知られていない。小六は秀吉の幕僚として「四国攻め」に出陣していた。そこへ「本能寺の変」の報がもた