戦国おもしろばなし百話

戦国おもしろばなし百話 page 10/22

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80い同じ様な経験があったからだ。あれは天正6年(1578)秋の頃だった。わしは信長公から、丹後を与えられていた。明智殿が丹波を与えられてから、3年後の事だ。ところが、国主である「一いっ色しきの大族」がここに....

80い同じ様な経験があったからだ。あれは天正6年(1578)秋の頃だった。わしは信長公から、丹後を与えられていた。明智殿が丹波を与えられてから、3年後の事だ。ところが、国主である「一いっ色しきの大族」がここに頑張っていて、わしが丹後の領主と言っても、名のみの事。隣国丹波の明智殿にもお世話になり、やっと平定して事実上の国主になったのは天正も10年(1582)になってからの事だ。こんな訳もある故、新しく2ヶ国貰ったとしても、これは空名目に過ぎない。備中戦線の秀吉公とは競争相手であり、互いに隙があったら叩き落としているので、援助を頼むわけにはいかないのだ。こうした理由が最大のものだと、わしは思っている。 何、明智殿の娘の「玉」の事をどう思っているか? あれは可哀そうな女性よ、山崎合戦の後、わしたち親子は秀吉公に付き、丹後を安堵された。しかし「玉」(細川ガラシャ)にしてみれば、生家の肉親をことごとく失ってしまったのだ。「玉」がキリシタンを信仰する様になったのも、こうした理由があっての事は皆の知る通りだ。わしは、忠興に、「玉」を自由にさすがよいと言ってやった。キリシタンは大名家では、禁教になっているが、親兄弟は元より一切の血をひいた者がいない「玉」には信仰だけが唯一の救いだと思ったためだ。確かに「玉」は、天地の間にたった一人になってしまった。しかし忠興の子を二人も生んでいる。これは明智の血をひく自分の子だ。「玉」はこの子らによって慰められているというものだ。 言うならばこれらの子は、細川家の子孫と同時に、明智の子孫でもある、半々だ。明智家は、わしの子孫によって再興された事になる。「玉」もそう考えたに違いない。お主らもそう思わぬかな!