戦国の女

戦国の女 page 17/22

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17武田氏さて、甲斐国内を統一し、隣国相模の北条氏と敵対する信虎は、やはり同氏と対立する扇谷上杉氏と姻戚関係を結ぼうとした(ちなみにこの三年前、信虎自身が、山内上杉氏の当主だった上杉憲房の後妻を側室に迎....

17武田氏さて、甲斐国内を統一し、隣国相模の北条氏と敵対する信虎は、やはり同氏と対立する扇谷上杉氏と姻戚関係を結ぼうとした(ちなみにこの三年前、信虎自身が、山内上杉氏の当主だった上杉憲房の後妻を側室に迎えている)。この時信玄は十三歳。新婦もおそらくは同年齢ぐらいだったのだろう、二人はすぐに仲良くなる。扇谷上杉氏は、他の上杉氏と同様、もとは鎌倉公方に仕える武家で、鎌倉の扇谷を本拠地としたことが、家名の由来とされる。関東管領の職こそ、上杉氏宗そ う家けの山内上杉氏に譲っていたが、相模を中心とする戦国大名に成長していた。上杉朝興は、大た い永えい四年(一五二四) に北条氏う じ綱つなに奪われるまで、江戸城を居城としていたので、朝興の娘も江戸城で生まれた可能性がある。江戸城を築いたのは、「築城の名人」として有名な、扇谷上杉氏の家か宰さい・太田道ど う灌かんである。それは、ちょうど道灌が活躍した享徳の乱の時期で、徳川家康が秀吉の命で江戸に移ってくる七十年ほども前の話だ。ともあれ、格上の家に生まれ育った新婦は、甲斐育ちの信玄少年には眩ま ぶしく映ったのではないか。新婦はほどなく妊娠するが、若齢出産のためか母子ともに亡くなってしまった。さすがの信玄も、まだ純粋だったようで、愛妻の死を深く悲しんだという。天文六年(一五三七) に朝興が死ぬと、信虎は翌年、扇谷上杉氏との同盟を破棄し、北条氏と和睦している。亡妻の実家を非情に切り捨てる父親に、若い信玄は反感を抱き、