真田幸村時代のおもしろばなし百話

真田幸村時代のおもしろばなし百話 page 23/26

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23一 真田の一族厚く厚く感謝し、もし敵が信濃路深く侵入した時は上杉軍の手によって打ち懲らしめる様お願いするというような返書の内容にしたら如何でしょうか?」跡部が答えた。「ここまで事....

23一 真田の一族厚く厚く感謝し、もし敵が信濃路深く侵入した時は上杉軍の手によって打ち懲らしめる様お願いするというような返書の内容にしたら如何でしょうか?」跡部が答えた。「ここまで事態が迫っているのにそんな悠長なことを……。今頼りになるのは上杉軍のみですぞ。」と昌幸は叫んだ。だが昌幸の意見に賛成して上杉軍に出兵を乞いたいという者は一人もいなかった。辰の刻の軍議で決まったことは28日に諏訪上原城から新府城へ本陣を引き上げるということであった。 新田次郎氏は武田勝頼の気持をよく汲んで見事に昌幸の忠誠を描いておられる。そして、勝頼は天目山へ死の行軍へと出発して行った。5幸村母・山手殿(昌幸正室) 出自については諸説があるが、京の公家・正おお親ぎ町まち実さね彦ひこ(季すえ秀ひで)(信玄妹の婿)の縁戚等の女子で、武田信玄の養女とされる。 永禄7年(1564)頃に武藤喜兵衛(後の真田昌幸)に嫁ぐ。これは永禄9年(1566)に誕生する嫡子・信幸(信之)の前に、永禄8年(1565)に生まれた女子(村松殿)がいるため、真田家三代