真田幸村時代のおもしろばなし百話

真田幸村時代のおもしろばなし百話 page 18/26

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18協力させる。武田信豊は各隊へ、ホラ貝と小旗で総指揮官信玄のカケヒキを伝える。大体こうした手配をし、5日夜のうちに各隊に行動を起させ、信玄は6日の未明に三増峠の高地へ登った。峠へ陣取った北条勢との間に戦....

18協力させる。武田信豊は各隊へ、ホラ貝と小旗で総指揮官信玄のカケヒキを伝える。大体こうした手配をし、5日夜のうちに各隊に行動を起させ、信玄は6日の未明に三増峠の高地へ登った。峠へ陣取った北条勢との間に戦闘が開始された。武田軍の本隊も登ってきて激戦が続いたが、志田峠を突破してきた山県らの遊軍が、後から攻めかかったので、北条勢は混乱し総崩れとなり、山を下り、中津川を渡って敗走した。武田軍がとった首は3千269 級であった。“勝ドキ式”を例のように執行したが、この勝利は信玄の軍略の見事さを語るものだった。信玄が三増峠へ向かったというので北条氏康・氏政親子は3万の兵を率いて後を追ってきたが、厚木付近で味方の敗報に接し、小田原に引き返した。勝ち誇っている甲州軍と戦いを交えるのは不利と思ったのだろう。この戦いで中央隊の大将浅利右馬助が鉄砲に撃たれ戦死した他、武田軍は300 余名の戦死者を出しただけだった。 この戦いでの一番槍は馬場隊に協力した武藤喜兵衛であった。かれはのちの真田昌幸で、真田幸隆の三男だったが信玄に目をかけられて武田一族の武藤家を継いでいた。この一番槍と云うのは抜け駆けではなく、はじめに敵の武士を突き伏せる戦功である。また、すごい“スーパーマン”が馬場美濃守の同心・鳶とび二に位いという法師だった。かれは昌幸が一番槍を立てたので、二番手では気がすまないと槍を捨てて剛刀を抜き、敵のすねを払い、また首をたたいて骨を折って8人を討ち取った。二人共、信玄から名誉の感状を受けた。戦国時代らしい話だが、この合戦では、人間の土産ものが