真田幸村時代のおもしろばなし百話

真田幸村時代のおもしろばなし百話 page 15/26

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15一 真田の一族3昌幸の一番槍 三み増ます峠とうげの合戦 武田信玄にとっては、北条・徳川の連携は読みの内に入ってはいたが、そのまま手をこまねいているわけにはいかない。大切な息子義信まで死なせているし、ど....

15一 真田の一族3昌幸の一番槍 三み増ます峠とうげの合戦 武田信玄にとっては、北条・徳川の連携は読みの内に入ってはいたが、そのまま手をこまねいているわけにはいかない。大切な息子義信まで死なせているし、どんなことをしても駿河を取り、遠とおと江うみにまで手を伸ばさなくては所しょ期きの目的を達することはできない。信玄は陽動作戦を考えた。駿河をいったん攻撃しておいて軍を返し、北条の牙城・小田原城を攻める方法である。小田原城が攻撃されているのが在駿河の北条軍に分かると、彼らはすぐ応援の後詰めに駆けつけるか、そうでないにしても有力な部将の半数は必ず戻ってくる。その機を見て軍を引き、手薄になった駿河を全力をあげて攻撃するというのだ。甲州に引き揚げてから二ヶ月ほど経った、永禄12年(1569)6月16日、信玄は暑い盛りを駿河に入り、伊豆に兵を向け引き返して駿河大宮城を攻めた。少数の兵だったが大兵のように偽装した。北条軍は、駿河をとられて怒った信玄が大兵を挙げて来たものと思い、上杉謙信に背後を衝くように働きかけたが、謙信は動かなかった。大宮城は兵を傷めないように攻め、6月23日、三度目の攻撃で落城させた。武田信玄は城代を置いて甲府に兵を返した。そして甲信の兵2万余を率いて上州に出、9月10日武蔵の鉢はち形がた城じょうを囲んだ。この城には北条氏が籠っていたが陥落させる必要がないので囲みを解き、さらに下って八王子の滝たき山やま城じょうを囲んだ。この城には北条氏うじ照てるがいたが、これも威い示じだけで十分だから囲みを解き、放火しながら南下した。10真田家三代