真田幸村時代のおもしろばなし百話

真田幸村時代のおもしろばなし百話 page 14/26

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14とまで言われた。天正13年、家康から沼田領の返還を求められるが拒否し、家康との対決が決定的になった。これが原因での「神川の戦い」(第一次上田合戦)で家康は上田城に7千の大軍を送るが昌幸は2千の兵にもかか....

14とまで言われた。天正13年、家康から沼田領の返還を求められるが拒否し、家康との対決が決定的になった。これが原因での「神川の戦い」(第一次上田合戦)で家康は上田城に7千の大軍を送るが昌幸は2千の兵にもかかわらず押し戻し、智謀を天下に知らしめた。昌幸の名は大いにあがり“小信玄”といわれた。信玄は戦の名人としてその評価が高まっていたので、小信玄と云われるのは武将としてこの上ない名誉であった。この様に云われたのは「昌幸一人」であった。彼はその後、秀吉の幕下となり、秀吉が死んでからは石田三成と親交を結んだ。慶長5年(1600)「関ヶ原の戦い」では西軍に与くみし、上方へ急ぐ徳川秀忠軍3万5千を、一週間上田城に釘づけにした。2・3千の僅かな兵で大軍を足止めした軍略で、名声は更に高まった。しかし西軍は敗北した。長男信のぶ之ゆき(信幸)の尽力で命は助けられる。次男信繁(幸村)と共に九度山に流される。九度山で父昌幸は、徳川が豊臣を滅ぼす予見と、対徳川への作戦を幸村に伝えたという。家康は昌幸を大変恐れた。“大坂の陣”で真田の名を聞いた家康は「親の方か、子の方か」と問い、部屋の戸板がガタガタと鳴る程身を震わせ、それが子の方(幸村)であると聞くと安堵したという。昌幸は、慶長16年(1611)6月4日、65歳で多彩なその一生を終えた。戦国時代を代表する武将であった。