真田幸村時代のおもしろばなし百話

真田幸村時代のおもしろばなし百話 page 13/26

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13一 真田の一族の際、本陣を固める旗本組に属するまでに至った。信玄の西上の軍に加わって出陣したが、途中、元亀4年(1573)4月12日、王であり師である信玄は倒れてしまった。昌幸の嘆きは深く、食事もノドを通ら....

13一 真田の一族の際、本陣を固める旗本組に属するまでに至った。信玄の西上の軍に加わって出陣したが、途中、元亀4年(1573)4月12日、王であり師である信玄は倒れてしまった。昌幸の嘆きは深く、食事もノドを通らなかったという。 信玄が病死した後、やがて武田家は勝頼の時代になり、天正3年(1575)5月「長篠の合戦」が行われた。この戦いで武田軍は大敗をした。この戦いが昌幸の転機となった。真田家の跡継ぎだった長男信のぶ綱つなと次男昌まさ輝てるが討死したため、彼は武藤家を去って安房守を名乗り、昌幸が家督を継ぐ事になったのである。昌幸は兄に代って上田付近を領有し、西上野の総大将に任じられた。東上野にも手を広げ沼田城を攻略し、その付近も併有した。数年後の天正10年(1582)2月、信長の甲州追討軍に対してどのように立ち向かうかの会議が甲州新しん府ぷ城じょうで行われたのは、武田家が滅亡一歩手前まで追い込まれていた時だった。昌幸は勝頼に自分の領地へ落ちてくる様、進言した。武田家への報恩の気持が強かったからだ。だが、勝頼とその譜代の重臣たちは昌幸の意見を容れなかった。のち、武田勝頼を見捨てて逃げ出す家臣や兵士が続出し、武田が弱体化してゆくなかにありながらも昌幸は最後まで武田家に仕えた。 勝頼は間もなく天てん目もく山さんで敗死した。勝頼が昌幸の意見通り、西上州方面に落ちて行ったら、武田は滅び無かったのだった。天正10年(1582)武田家滅亡後、昌幸は自領を保つため臣従する主君を巧みに変え、北条や上杉についた。その変り身の早さから秀吉、秀吉家臣に「表ひょう裏り比ひ興きょうの者」真田家三代