真田幸村時代のおもしろばなし百話

真田幸村時代のおもしろばなし百話 page 12/26

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12天正2年、調略と戦闘に明け暮れた生涯を閉じるが、その体には歴戦の傷が35箇所も残っていたという。2第二代 幸村の父・真田昌幸 武田信玄に仕えた武略の天才。真田幸ゆき隆たかの三男として生まれた。昌幸は数々....

12天正2年、調略と戦闘に明け暮れた生涯を閉じるが、その体には歴戦の傷が35箇所も残っていたという。2第二代 幸村の父・真田昌幸 武田信玄に仕えた武略の天才。真田幸ゆき隆たかの三男として生まれた。昌幸は数々の戦功を収めた知将である。真田昌幸(1547 ?1611)は早くから武田信玄(1521 ?1573)に近習として仕えるとその才能を見抜かれ、寵愛を受けたといわれている。三男でもあり、信玄は、昌幸が青年になると武田一門の武藤家を継がせて武藤喜兵衛と名乗らせた。彼はこの昌幸に軍学をはじめ、政治、経済、謀略にわたり自分の得意とするものをみな教えた。「武藤喜兵衛と曽根内た く匠みは信玄公の両眼の如し」と言われたほど、信玄の考え方やその方法を身につけた。曽根内匠(昌まさ世ただ)も旗本の若手武士の中でずば抜けて優秀であった。初陣は永禄4年(1561)「川中島の戦い」とされる。昌幸はやがて参謀格の足軽大将となり、騎馬15、足軽50人をあずけられた。永禄12年(1569)10月の三増峠で、一番槍を立てて信玄から感状を貰ってからは、武藤喜兵衛の名は甲州軍の中で一段と高くなった。こうして次第に頭角を現していった昌幸は、元亀3年(1572)「三方ケ原の戦い」