真田幸村時代のおもしろばなし百話

真田幸村時代のおもしろばなし百話 page 11/26

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11一 真田の一族代家臣と同等の待遇を受け、甲府に屋敷を構えた。 そして、信州では佐久、小県の豪族を味方につけ、佐久郡志賀城の攻略、上田原の戦い、砥石城(戸石城)(長野県上田市上野)の攻撃などに参加し武....

11一 真田の一族代家臣と同等の待遇を受け、甲府に屋敷を構えた。 そして、信州では佐久、小県の豪族を味方につけ、佐久郡志賀城の攻略、上田原の戦い、砥石城(戸石城)(長野県上田市上野)の攻撃などに参加し武功を挙げた。中でも信玄が落とせなかった砥石城を簡単に乗っ取ったのは有名である。幸隆はこの手柄によって砥石城を貰い、松尾城(真田本城)とこの城に生涯住んだ。上州では国くに峰みね城、岩いわ櫃びつ城、箕みの輪わ城、沼田城攻略に手柄を立て、内ない藤とう修しゅ理りと共に西上州の経営を信玄から任されていた。信玄が西上の軍を発した時、三人の息子、信のぶ真田幸隆綱つな、昌まさ輝てる、武藤喜兵衛(昌まさ幸ゆき)を従軍させ、自分は関東の押さえとして後に残った。だが元亀4年(1573)4月、信玄が上洛途上で病死すると、その後を追う様に翌年5月19日、病の為その生涯を閉じた。62歳だった。波乱に満ちたその一生は信玄という親友を得たことで大きく輝いた。信玄への傾倒は深く、息子たちを皆、信玄の手許に送って教育した。 幸隆・昌幸・信繁(幸村)のいわゆる「真田家三代」の初代であり「鬼おに弾だん正じょう」の異名をとった幸隆は、真田家三代