龍馬おもしろばなし百話

龍馬おもしろばなし百話 page 16/20

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18摘したわけだ。 彼は、周囲の同輩たちがやっていた学問とは、まるで“縁”が無かったが、武芸を嗜むことで「寝小便たれ」「泣き虫小僧」から、たくましい有為の青年に成長して行ったのである。 この「龍馬・愚童....

18摘したわけだ。 彼は、周囲の同輩たちがやっていた学問とは、まるで“縁”が無かったが、武芸を嗜むことで「寝小便たれ」「泣き虫小僧」から、たくましい有為の青年に成長して行ったのである。 この「龍馬・愚童説」を採用した『維新土佐勤王史(坂崎紫瀾編)』『坂本竜馬(千頭清臣著)』などの出版物によって、次第に「愚童説」が定着していったのであろう。5龍馬はなぜ千葉道場に入門できたのか 江戸剣道修学のため、龍馬(1836 ~ 1867)が高知を発ったのは、嘉永六年(一八五三)三月十七日のことだった。この時は、藩に十五ヶ月の国暇を願い出て許された。その時、龍馬十九才。龍馬と行動を共にしたのは、高知城北江ノ口村出身の溝みぞ渕ぶち広ひろ之の丞じょう(1828 ~ 1909)。(龍馬は、溝渕とは別に江戸入りしており、千葉道場では同門となったというのが、本当らしい)。 東海道経由で江戸に出た龍馬らは、二人揃ってある場所に向かった。桶町千葉道場である。桶町千葉道場は、この時代には桶町でなく、新材木町か鍛冶橋御門前にあったが、安政二年(一八五五)十月二日の大地震で焼け出され、桶町に引っ越したという。龍馬が江戸に来た時は、まだ桶町でなかったというのだ。 千葉道場は、神田お玉ケ池ではないのか? 千葉道場は、たしかに神田お玉ケ池が有名だが、それは千葉周作(1793 ~ 1856)の道場で、龍馬と溝渕が寄宿した道場は、周作の弟定吉の道場だ。 北辰一刀流の千葉周作がかまえた道場は、正式には「玄武館」といい、はじめ日本橋品川町にあったのが、