龍馬おもしろばなし百話

龍馬おもしろばなし百話 page 14/20

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16かったが、義兄順蔵は、文武両道に秀で「龍馬のお手本」であった。乙女宛ての手紙に「順蔵さんにお見せ」とか「順蔵さんのうちにおるような心持にて」と、昔を追憶している。千鶴は、文久元年に病没。 次女“栄え....

16かったが、義兄順蔵は、文武両道に秀で「龍馬のお手本」であった。乙女宛ての手紙に「順蔵さんにお見せ」とか「順蔵さんのうちにおるような心持にて」と、昔を追憶している。千鶴は、文久元年に病没。 次女“栄えい”は、この世からも坂本家からも記録を抹消された女性で、しかも、弟龍馬と大きなかかわりがあって、彼も生涯このことは心の負担となった。栄は、彼の脱藩を助け大志を励ましたが、禍わざわいが一家一族に及ぶのを懸念して自殺したという。栄の密葬墓は、昭和四十三年(一九六八)一月に掘り出され、“乙女の墓”と並んで新しく建てられた。「白露の玉のおすすきいえつとゝ 月かげながら手折りきや君」の美しい遺詠があったと伝えられる。■ところが、昭和六十三年(一九八八)に、“栄えい”のものと見られる別の墓石が、嫁ぎ先である柴田家の墓石と隣り合わせに発見された。墓石には「柴田作衛門妻」「坂本八平女」と二行で刻まれ、没年が「弘化□□九月十三日」と一部破損して解読不能なものの、かつては「弘化乙巳二年九月一三日」と刻まれていたことが判明しており、「貞操院栄妙」という戒名が刻まれていたという。弘化二年とは一八四五年で、龍馬の脱藩より十六年も前のことになり、栄は、嫁いですぐに若くして亡くなったことになる。この発見によって、栄の自害云々はともかく、柴田家を離縁されたことも疑わしく、龍馬に刀を渡せるはずもないことが証明された。通説は覆った。以後、龍馬の脱藩時に刀を渡したのは、三女・乙女(1832 ~ 1879)で、「肥前忠弘」ということになっている。