レトロとロマンを訪う 京都 明治・大正地図本

レトロとロマンを訪う 京都 明治・大正地図本 page 7/28

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5らとともに洋学、兵学を学んだ。このような傑けっ出しゅつした人物との交流を通じ、覚馬は日本の将来について思いを深めたのだろう、帰藩後、ただちに日新館の教授となり、蘭学所の開設を建言するとともに軍制の改....

5らとともに洋学、兵学を学んだ。このような傑けっ出しゅつした人物との交流を通じ、覚馬は日本の将来について思いを深めたのだろう、帰藩後、ただちに日新館の教授となり、蘭学所の開設を建言するとともに軍制の改革に取り組んだ。 そんな覚馬を見て、11 歳の多感な年齢を迎えていた八重は、将来自分も兄の役に立つような仕事をやりたいと、胸躍らせたのではあるまいか。最初の結婚 八重は、生まれつき普通の女子とは興味の持ちどころが異なったようである。当時の武家の女子は、年頃になるとお針稽古をするものだが、八重はこれをあまり好まず、むしろ鉄砲稽古に勤しんだ。砲術師範の父・権八や兄・覚馬の指導を受け、少女の頃から砲術・銃術をマスターする。白虎隊に志願した伊い東とう悌てい次じ郎ろう(のちに戸ノ原の戦いから潰かい走そう時に戦死)に銃の使い方を教えたというエピソードは有名だ。 八重はまた、物怖じしない性格と少女とは思えぬ体力を持ち合わせていた。13 歳の時に四斗俵(重さ約60 キロ)を4 回も肩に上げ下げしたと自ら証言しており、正に男勝りの「怪少女」だったのだろう。そんな八重にも年頃になると縁談が持ち上がる。相手は蘭学所の教授・川かわ崎さき尚しょう之の助すけ。覚馬がその才能を見込んで招しょう聘へいした、但たじ馬ま生まれの蘭学者だった。 八重が、尚之助に対してどのような感情を抱いていたかは分からない(以前から尚之助は八重の家に寄宿していた)。ただ、当時の武家社会に恋愛結婚などあり得ない。覚馬が決めた結婚話に、八重は従順に従うほかなかったのだろう。八重19 歳の時であった。右/京都府立図書館前に立つ吉田松陰詩碑(地図P49)左/佐久間象山の墓がある妙心寺(地図P2)勝海舟(182 3 ~ 1899) 佐久間象山(1811 ~ 1864) 吉田松陰(1830 ~ 1859)新島八重の生涯