レトロとロマンを訪う 京都 明治・大正地図本

レトロとロマンを訪う 京都 明治・大正地図本 page 24/28

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1061876(明治9)1月3日八重(1845~1932)、新島襄(1843~1890)と、デイヴィス邸において、J・D・デイヴィス(Jerome.Dean.Davis)(1838~1910)の司式により結婚。(京都における日本人の最初のキリスト教の式....

1061876(明治9)1月3日八重(1845~1932)、新島襄(1843~1890)と、デイヴィス邸において、J・D・デイヴィス(Jerome.Dean.Davis)(1838~1910)の司式により結婚。(京都における日本人の最初のキリスト教の式による結婚式)。八重はお手製のドレス姿。クリスチャン夫妻の誕生を祝うために列席したのは、同志社英学校の生徒たち、ラーネッド夫妻、八重や覚馬の友人など、40人ほど。質素な式で、当日の料理は、八重手作りのクッキーだったという。学生であった徳富猪一郎(蘇峰)(1863~1957)には、夫婦揃った目の前で、「頭と足は西洋、胴体は日本という鵺ぬえのような女性」とまで酷評する。―新島夫婦は、西洋的なクリスチャンホームを営む。八重は襄や宣教師婦人達から、洋食や洋菓子の作り方を教わり、襄のためにせっせと料理をした。派手な帽子・靴・和洋折衷の衣装で大いに人目を惹いた八重は、夫を「ジョー」と呼び捨てにしたり、レディファーストで夫より先に人力車に乗るのは当たり前。当時珍しかった自転車に乗ったり、仲良く2人並んで御所を散歩したり、人力車に夫婦相乗りして三嶋亭(現・中京区寺町通三条下ル桜之町)(明治6年創業)へ、すき焼きを食べに行ったりする。京すずめには「悪妻」「烈婦」として嫌悪の目で見られたが、彼女はどこ吹く風と気にもとめなかったよう。八重にとっては古い日本の因習との戦いである。八重は英学校の聖書の授業に参加したこともあり、それに対して学生達は、襄に奥さんを連れてこないように申し入れたという。1月30日「熊本バンド結成」。元砲兵大尉リロイ・ランシング・ジェーンズ(Leroy.Lansing.Janes)(1837~1909)の指導でキリスト教を信仰した熊本洋学校の生徒35人(40人とも)が、花岡山で「奉教趣意書」を朗読して署名。2月この月、新島襄(1843~1890)、山本覚馬(1828~1892)と共に、「誓詞」を再確認するため、書面を提出する。2月22日J・D・デイヴィス、同志社に対して「許可外の学科は教えない」旨の誓約書を出す。2月女紅場で働いた経験のある新島八重、この月、J・D・デイヴィス(Jerome.Dean.Davis)(1838~1910)の妻の姉にあたるアメリカン・ボードのE・T・ドーン宣教師夫人と私塾を、新島宅で始める。生徒はわずか3人ながら、八重はこれを「同志社女学校の基」と言う。生徒は3人で、その中の9歳の男の子はやめ、女生徒の姉の方は病気で亡くなり、妹もやめて、この私塾は、自然消滅となる。3月月末、E・T・ドーン宣教師夫妻が、竹屋町に借家を構える。4月10日A・J・スタークウェザー(Alice.Jennette.STARKWEATHER)宣教師、入洛。5月2日より女子のための私塾を宣教師館で、毎日授業を開始。のちの「同志社分校女紅場」である。4月26日襄の両親(民治、登美)、祖父弁治、姉(三女みよ)(1838~1879)、義甥・公きみ義よし(1860~1924)が、上州安中を引き払い、この日、新島襄の借家(岩橋家)に移り住む。現・上京区新烏丸頭町(現・鴨沂高等学校の東南角)の借家離れである。新島襄・八重夫妻(同志社大学提供) 新島襄の両親(同志社社史資料センター提供) リロイ・ランシング・ジェーンズ西暦(和暦) 新暦出来事