レトロとロマンを訪う 京都 明治・大正地図本

レトロとロマンを訪う 京都 明治・大正地図本 page 23/28

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83新島襄・八重、山本覚馬物語&近代建築物年表9月【8月】この月、山本覚馬(1828~1892)、師である会津藩大砲奉行・林権助(安定)(1806~1868)の随行員に選ばれ、江戸藩邸勤番を命じられる。―山本覚馬、この年....

83新島襄・八重、山本覚馬物語&近代建築物年表9月【8月】この月、山本覚馬(1828~1892)、師である会津藩大砲奉行・林権助(安定)(1806~1868)の随行員に選ばれ、江戸藩邸勤番を命じられる。―山本覚馬、この年、大木仲益(後の坪井為春)(1824~1886)に蘭学を学ぶ。江川英ひで龍たつ(坦庵、太郎左衛門)(1801~1855)、佐久間象しょう山ざん(1811~1864)、勝海舟(1823~1899)を訪おとない、洋式砲術の研究を深める。のちに八重の夫となる川崎正之助(のち尚之助)(1837?~1875)と覚馬は、ここで知り合ったという。― この年、新島七五三太(襄)(1843~1890)、安中藩の学問所に入り、招かれて藩の儒者となった会津出身の添そえ川かわ廉れん斎さい(完平)(1803~1858)について漢文の学習を始める。同時に剣術や馬術の稽けい古こを始める。1854(嘉永7(安あん政せい1))3月31日【3月3日】「約200年間続いた鎖国が終わる」。江戸幕府、勅許を得られないまま、「日米和親条約(神奈川条約)」を締結。4月25日【3月28日】長州藩士吉田松しょう陰いん(1830~1859)ら、下田沖の軍艦に密航を企てて失敗し自首。1855(安政1) 1月15日【11月27日】安政に改元。1855(安政2)―江戸後期からの油の専門店、山中油店主屋(国登録有形文化財)(上京区下立売通智恵光院西入下丸屋町)は、この年に建てられたとされる。下立売通に南面する間口9間の平屋建町家。切妻造、桟瓦葺で表裏に庇が付き、北に落棟が続く。1856(安政3)―この年、八重兄山本覚馬(1828~1892)、遊学先の江戸から会津に帰る。やがて、藩校日新館教諭となる。そこで覚馬、「蘭学所の設置」と「兵制改革」を建言する。覚馬は藩に西洋式銃を導入した主力部隊の編成を訴える。しかし、「長沼流兵法」という古い軍隊制度を採用していた会津藩では、山本覚馬の意見は受け入れられなかった。守旧派批判により、1年間の禁足に処せられる。―この年、新島七五三太(襄)(1843~1890)、上野安中藩の第5代藩主板倉勝かつ明あきら(1809~1857)から命じられて、田島順じゅん輔すけ(1828~1859)について蘭学を習いはじめる。藩主がはじめて蘭学者を招しょう聘へいし、門生として藩の中から優秀な子弟3名を選抜することとなり、その1名に七五三太が選ばれ、最年少者として蘭学の教授を受けたという。しかし、教師(田島順輔)が長崎へ遊学したため蘭学の勉強を中断する。1857(安政4) ― この頃、新島七五三太(襄)、15歳で藩主の寵ちょうにより、学問所助勤を仰せつかり、文章の読み方を教える、句く読とう師しとなる。5月3日【4月10日】新島が敬愛した安中藩主勝かつ明あきら(1809~1857)死去し、弟で養子の板倉勝かつ殷まさ(1857~1871)が6代藩主となる。12月30日【11月15日】新島七五三太(襄)(1843~1890)、元服をして諱いみなを「敬けい幹かん」とする。烏帽子親は、岡田源七郎(?~1867)。七五三太(襄)は、藩の祐ゆう筆ひつ補助役を命じられる。―禁足から1年後、大砲奉行の林権助(1806~1868)の助力により、山本覚馬の禁足が解ける。そして、権助の協力により、会津藩に西洋式銃の導入も認められ、藩の軍事取調兼大砲頭取十五人扶持となる。さらに、覚馬は、会津藩校日新館内に設けられた蘭学所教授となる。蘭学所の教師は、覚馬と南なん摩ま綱つな紀のり(1823~1909)の2人だけだったが、後に川崎尚しょう之の助すけ(1837?~1875)と古川春しゅん英えい(1828~1870)の2人が加わり、充実していく。春英は、安政4年(1857)、会津藩に蘭学所が開設されたのを聞いて会津に戻り、蘭学所の責任者である野村監物のとりなしによって帰藩を許され、蘭学所の教官となったという。ペリー山中油店(地図P36)西暦(和暦)新暦【旧暦】出来事